佐藤栄作(首相官邸HPより)
弊社から『甦れ 田中角栄 人が動く、人を動かす 誰でも分かる「リーダー学」入門』を刊行した、永田町取材50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。連載1回目は「佐藤栄作(上)」。
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「若いうちから、なんとも物を言わん男でしたよ。ひどいときには、数えていたら1日にたった二言という日もありました。生涯、他人さまの何分の一しかしゃべらん男でした。国会でくたびれたときも黙っているし、例えば一緒にニューヨークへ行く飛行機のなかでも、本を読んでいてこれまた何も言わない。
で、たまに私が『今日は大変でしたね』などと言おうものなら、即『生意気言うなッ』で、女、子供に国家の大事なことが話せるかということなんでしょう。総理大臣になったときも同じで、周りが『おめでとう』と浮き足立っているのに、ムスッとした顔で帰ってくるや仏壇に手を合わせ、ジロッと私を見ただけで何も言わない。ええ、連れ添って亡くなるまで、私は一度も『おまえを気に入っている』などと言われた記憶はございませんね」
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佐藤栄作は前任総理の池田勇人から指名を受けたことで、昭和39(1964)年11月に内閣を発足させた。
実兄に元総理の岸信介がいる佐藤は、とりわけ戦後政界で「ワンマン」と呼ばれた吉田茂にかわいがられ、運輸省次官を経て異例のノーバッジで第2次吉田内閣の官房長官に就任した。
その後、衆院議員に初当選して吉田自由党の幹事長となるも、「造船疑獄」に連座したかどで逮捕請求された。しかし、吉田が時の法相である犬養健の背中を押したことで「指揮権発動」が行われ、どうにか逮捕を免れるなど“危ない橋”も渡っている。
しかし、佐藤は持ち前の強運も手伝って悲願の「沖縄返還」をやり遂げ、「師匠」である吉田の7年2カ月を超える憲政史上初の連続して7年8カ月の長期政権を維持した。政界引退後、佐藤は「非核三原則(核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず)」を確立したうえの「沖縄返還」だったと評価され、ノーベル平和賞を受賞している。
「黙々栄作」の異名を持つ堅物
一方、佐藤には「黙々栄作」の異名があり、多くを語ることなく堅物の印象が強かった。筆者はこの佐藤から現在の石破茂まで、じつに27人の総理を取材してきているが、国会の赤じゅうたんを衛士や秘書官らに取り囲まれながら闊歩する姿は、ダンディーかつ好男子でもあっただけに、さながら歌舞伎の市川團十郎が花道で見栄を切るがごとくの重厚な華やかさがあったものだった。
そうした雰囲気を醸した総理は、残念ながら他には一人としていなかった記憶がある。
まさにそうした「黙々栄作」について語ったのは、佐藤の妻である寛子だったが、彼女は一方で世評とはいささか違う夫の“もう一つの顔”を明らかにしてくれたものであった。
筆者は「佐藤総理」を取材する過程で、この寛子夫人からも多くの話を聞いた思い出がある。夫人の印象は、総理夫人としては珍しく自由闊達にして、夫・栄作とはまるで異なる何事も腹にしまっておけないざっくばらんな性格のようであった。
ためか、冒頭の話の一方で、まさに“包み隠さず”こんな秘話を語ってくれたのだった。
「結婚当初は安月給で、見つかったら恥ずかしいので周囲をキョロキョロ、一、二の三で質屋に飛び込んだこともしばしばでした。当時の栄作は部下もいれば付き合いもあるから、芸者をあげてのドンチャン騒ぎも必要だったのか、家計費の半分は飲んじゃうんです。世間の印象とは、まるで違うんですよ。
じつは好きなゴルフや釣り以外にも、バー通い、麻雀、競馬、パチンコと、男なら手を出す遊びはひと通りやっておった男なんです。
競馬は“堅い”馬券専門、ことのほかパチンコ好きで、代沢(東京都世田谷区)の自宅から歩いて10分ほどにある下北沢のパチンコ屋へよく行っていました。栄作は『花輪が出ている店はよく入る』と言いながら、しばしばチョコレートなどが入った景品の袋を抱えて帰ってきたものです。
もっとも、大蔵大臣(昭和33年6月の第2次岸信介内閣)になったのを境に、警備上の問題からフラリと出掛けることはできなくなりました。好きなパチンコはこれにて“打ち止め”になり、しばし手持ち無沙汰のようでしたね」
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お手伝いさんが総理の洗濯姿に呆れ退職
ノンフィクション作家の上坂冬子による『宰相夫人の昭和史』(文藝春秋)によれば、代沢の邸宅は佐藤が第3次吉田内閣で郵政・電気通信相に就任して間もなく住み始めた。
旧三井財閥系の実力者が粋を凝らして建てた純日本家屋で、敷地500坪、庭の茶室は病床にあった岩倉具視公を明治天皇が見舞ったといわれる、由緒ある建物が移築されたものらしい。
ちなみに、佐藤が総理になったのを機に、別棟として母屋に佐藤の居室を増築し、のちに佐藤の死後は妻の寛子が使っていたとされる。この佐藤の居室は窓、引き戸などすべてに、防弾ガラスがはめ込まれていたそうである。
佐藤夫妻は総理就任後、この邸宅に住んでいたが、大学紛争などが拡大してきた昭和42年から同44年4月の「沖縄デー」の頃には、手製のガス弾が投げ込まれるなどの物騒、近所迷惑もあって、それ以後は総理公邸ヘ生活の拠点を移している。
その公邸の生活についても寛子夫人は、こんな意外な「黙々栄作」の素顔を語ってくれたものだった。
「主人は元来まめなほうでしたから、風呂場に行くときは浴衣姿で、自分の下着をぶら下げているんです。自分でその下着を洗っているんですね。こうした姿を見ていたお手伝いさんの女性が、ある日、こう言ったんです。『天下の総理大臣のところでの仕事なら勉強になるだろうと思っていましたが、夢も壊れたので辞めさせてください』と。結局、彼女は2週間足らずで辞めていきましたね」
総理公邸の生活では、まだまだ意外な一面を見せる宰相であった。
(本文中敬称略/以下、次号)
文/小林吉弥
「週刊実話」12月5・12日号より
小林吉弥
政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。