元日本代表MFのラモス瑠偉氏が、鈴木啓太氏のYouTubeチャンネルで“ドーハの悲劇”について語った。
ブラジル出身のラモス氏は、20歳だった1977年に来日し、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)に加入。89年に日本に帰化し、クラブと日本代表の主軸として活躍した。
そして、1993年に行なわれた、アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選に、36歳で出場。だが、ハンス・オフト監督が率いる日本代表は、イラクとの最終戦で終了間際に追いつかれて2-2の引き分けに終わり、目前まで迫っていた本大会は初出場を逃した。
この、いわゆる“ドーハの悲劇”が起きた要因として、ラモス氏は日本の選手たちの疲労を挙げる。
「2-1になってから、私がベンチに走って『北澤(豪)を出せ』と言っているんですよ。(ベンチは)『いや、まだ時間ある』と。『ふざけんな。俺たちはもう疲れてきたんだ』。私たちは4-3-3でずっと暑いなかでやっているんです。メンバーを、ほぼ変えなかったんです。疲れているんです。外から私たちのプレーに気づいていなかったんです」
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特に、ラモス氏自身の体力は限界に近く、パスを出した際には「足が100キロぐらいあると思った」ほどだったという。
また、同点にされた場面では、日本の選手たちの意思統一ができていなかった。試合終了寸前の場面で相手はビハインドだったものの、CKでGKがゴール前に上がってこなかった。ラモス氏は、虚をつかれたと回想する。
「『ここで終わりだ』と言ったら、レフェリーは『あと、ワンプレー』と。『いやワンプレーじゃないでしょ』と。パッと、(相手が)ショートコーナーをやったんです。『あれ。嘘だろう』と。実際、何が起きたか分からないですね。スローモーション、みんな見ていて。蹴った瞬間に多分みんなが『え、え』ってなって。『あれ、笛吹かないのか』という雰囲気だった」
日本の元10番は、「これが日本のサッカーのスタートじゃないかな」と続けた。
あれから、30年以上が経った。その間、日本代表は7大会連続W杯出場を果たし、次回の北中米ワールドカップのアジア最終予選でも強さを見せ、本大会出場に王手をかけている。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
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