〈東大首席卒の女性弁護士〉「学生時代はガリ勉男子と、財務省時代は同僚と」なぜ努力の継続にライバルは必要不可欠なのか

人間には本能に刷り込まれた競争性があり、努力を続ける上でライバルの存在は必要不可欠である。

積み重ねが苦手な人々に対し、山口真由氏が具体的な努力の実践方法を説いた書籍『天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。』(扶桑社新社)より一部抜粋・再構成してお届けする。

「自分との戦い」に持っていかない

ピアノと習字の違いは、進級という制度のほかにもありました。それは、私の場合、ピアノの練習は個人レッスンでしたが、習字教室は妹と一緒に通っていたことです。

私にとって、これがもっとも大きかったと思います。つまり、身近にライバルがいたのです。

妹が習字教室に行くというと、たとえ行きたくなくとも、私も一緒に行かないわけにはいきません。行かないと妹に差をつけられてしまいます。

「妹には負けたくない」

そう思って、「私も一緒に行く」と言って、ともに教室に向かいました。

何かをやり続けるうえで、こういったライバルという存在は必要不可欠だと思います。浅田真央選手とキム・ヨナ選手、羽生善治棋士と森内俊之棋士といったように、何かに努力をし続ける際に、ライバルがいるというのはとても心強いのです。このような「競争」があることは、効率的に自分自身を高めていくには、都合がいいのです。

私は中学校まで北海道の公立中学校にいましたが、定期試験でダントツのトップなどではなく、いつも僅差で競うようなライバルがいました。

同学年に秀才といわれる男の子がいました。彼は「ガリ勉」といわれることをものともしない強靱な精神の持ち主で、休み時間にも友達と話すこともなく参考書を読んでいました。なんだかんだで人の目を気にしがちだった私にとっては、尊敬もし羨ましくもあり、私が明確に意識していたライバルでした。

そして、ライバルのことを具体的に思い浮かべると、がぜん本気になれるというか、一生懸命になれることに気付きました。テスト前、ちょっとのんびりして、テレビを見たりすることもあります。すると、頭の片隅に、私が休んでいる間に、こつこつと勉強を続けている彼の姿が浮かんできます。そうするともうテレビには集中できなくなります。

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本能に刷り込まれた競争性を利用

そして、私は、そそくさとテレビのスイッチを消して、机に向かうのです。

これは、社会人になってからも同じです。財務省に入った際に、同じ局に配属された同期の男性とは、仕事の愚痴を言い合ったり、なぐさめ合ったりする仲でした。しかし、夜遅くまで仕事をして、今日終わらせられるかもしれないけど、疲れたから明日にまわそうと思うことがあっても、横で彼がまだ働いているのを見ると、「彼がまだ頑張っているのだから、私も頑張れる」と思え、もうひと踏ん張りできたのです。

ライバルが必要であること。これは何も人間に限ったことではありません。競走馬を見ていてもわかります。どのレースも、すべてのサラブレッドは、ほかの馬より前に出ようとしています。もちろん、サラブレッドが競走に勝つことで利益を得るのは人間です。それでも、それぞれのサラブレッドは、ほかの馬より鼻先でも前に出ようとするのです。これは、ほかの馬と並ぶと少しでも先に出たいと思う競争性がその本能に刷り込まれているからなのだそうです。