大正時代に建てられた長谷の和モダン建築で味わう研ぎ澄まされた蕎麦と香り豊かなコーヒー〜鎌倉 北橋

鎌倉で育ち、今も鎌倉に住み、当地を愛し続ける作家の甘糟りり子氏。食に関するエッセイも多い氏が、鎌倉だから味わえる美味のあれこれをお届けする。趣のある建物が多い鎌倉だが、大正時代に建てられて長谷の古民家が今夏、蕎麦屋&カフェとして新しい命を吹き込まれた。絶品の蕎麦とコーヒーと建物を味わえる「鎌倉 北橋」だ。

大正時代の日本家屋と洋館が蕎麦屋&カフェに

鎌倉の楽しみ方でおすすめの一つは建築探索だ。
かつて別荘地として栄えた鎌倉には凝った建築の古い建物がたくさん残っていて、一般公開されていたりレストランやカフェになっていたりするものも少なくない。中でも由比ヶ浜通り近辺は鎌倉市が指定する景観重要建築物が点在しているので、ぶらぶら歩くだけでもちょっとした時代旅行ができる。

かいひん荘 鎌倉、ハリス幼稚園、旧吉屋信子邸、長谷こども会館、鎌倉彫の白日堂、寸松堂、旅館の対僊閣、のり真安齋商店などがある。

2026年まで大規模改修中の鎌倉文学館の公開も待ち遠しい。指定重要建築物ではないけれど、柴崎牛乳店も見る価値のある建物だ。

私は建築の知識はほとんどないけれど、建売なんて発想がなかった時代の職人たちの知恵と技術と情熱を感じると気分が上がる。自分の中に潜んでいた、古き良き時代への敬意と親しみがふつふつと静かに音を立て始めるのだ。

長谷にある景観重要建築物の旧加賀谷邸は、数年間をかけて蕎麦屋&カフェ「鎌倉 北橋」として生まれ変わった。この家屋が造られたのは大正時代。日本家屋の一部が洋館になっているのは当時の流行りだったという。

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シンプルなものこそ、作り手が丸ごと表れる

日本家屋の部分がお蕎麦屋さんである。お蕎麦屋さんなんだから当たり前なのだが、お蕎麦が本当においしい。コシがあってみずみずしくて、蕎麦が喉を通り抜ける度に晴れやかな気持ちが重なっていく。おいしい水を飲んだ時のような衝撃、といったらいいだろうか。家族連れやカップルに混じって、一人何かを確認する表情で蕎麦を手繰っている客が少なくないのも、さもありなん。蕎麦のおいしさは向こうからやってくるのではなくて、食べる側が自らの感覚を研ぎ澄まして探すものという気がする。

初めて訪れたなら、ぜひ「食べ比べ」を注文してほしい。産地の違う蕎麦粉を、つなぎを一切使わない生粉打ち(きこうち、と読みます。十割蕎麦のこと)、殻ごと粗挽きにした玄挽き、一割だけ小麦粉が入っている九一などで食べ比べができるメニューだ。
すっきりしていたり、ワイルドだったり、ふくよかだったり。蕎麦という世界の多彩さをひしひしと感じられる。同時にシンプルなものこそ、作り手が丸ごと表れるということにも気が付かされる。

「食べ比べ」には二種類と三種類があって、女性だと三種類はお腹がいっぱいになるはずだが、私はつい欲張って三種類を注文してしまうことが多い。せっかく北橋に来たのなら、蕎麦の世界に浸りたいから。

そして、私がもう一つ、ぜひ食べてみてほしいのはだし巻き卵。こちらも何か特筆するべき変わったところがあるわけではないのだけれど、でも特筆するべきおいしさだ。ふんわりとした食感、控えめな出汁の味、卵のまろやかさ。聞けば、店主は卵を薄―くひいては巻き、薄―くひいては巻き、を繰り返しているそう。何事も細部の積み重ねなのだ。

玄関から飲食のスペースまでの廊下の左側に蕎麦打ちの小さなコーナーがある。蕎麦を打ち終わった後のすっきりとした空間もまたこの店の味わい。
店主の北橋さんは自らを「蕎麦オタク」といい、「うちは蕎麦屋ですから蕎麦一枚から使ってくださいね」とおっしゃるのだが、ここはそれだけではもったいない。メニューにはお酒のアテにいい一品料理がずらりと並んでいる。

天ぷらや鴨焼き、しらすの沖漬けに甘海老の醤油漬け、磯海苔の三杯酢などに、そばがき、蕎麦寿司、蕎麦味噌なんていうのもある。日本酒ももちろんいいけれど、蕎麦焼酎という選択がこれほどぴったりくるお店もなかなかない。私はふだん焼酎はあまり飲まないのだけれど、ここでのお酒はまず蕎麦焼酎からスタートする。気の置けない友人たちとあれこれ頼んで、飲みながらおしゃべりに花を咲かせ、最後にフレッシュな蕎麦で締めくくる、なんていうのもまた楽しい。

蕎麦会席のコースもあって、人数によっては襖を閉めて奥のスペースを個室のように使うことも可能。気軽に蕎麦一枚からおもてなしまで幅広い使い方ができる。