大自然のなかで自由な滑走を楽しめる大きな魅力の一方で、さまざまな危険が潜む雪山のバックカントリー。バックカントリーガイドは、そんな雪山で安全を担保しながら、豊かな知識と経験をもとに、得も言われぬ滑走体験を提供してくれる専門家だ。そのプロガイドを生業として選び、一歩一歩ゆっくりと堅実にその世界へと深く踏み込んでいく新進気鋭のガイドたちの「人となり」や「ガイディング」に迫る。
鳥海山の麓でアルペンに打ち込んだ日々
秋田県を代表する名峰、日本百名山・鳥海山の麓で育った佐藤にとって、スキーはもの心つく頃からの遊びだった。
「冬になると雪に覆われて、スキー場が近くにある農家に生まれ育ちました。両親と兄がスキーをやっていたので、歩き始めると当時に、長靴スキーを履いて裏山やゲレンデを滑っていたようです。ホームゲレンデは鳥海高原矢島スキー場。当時は、バブル景気のスキーブームで映画『私をスキーに連れてって』に出てくるようなスキーヤーがリフトに列をなしていた光景を覚えています」
小学校4年のときにスポーツ少年団に入り、アルペンスキーを本格的にはじめた。楽しかったスキーは、中学校で芽が出て、県大会で上位に食い込む。このときに、たざわ湖、森吉山阿仁、秋田八幡平、ジュネス栗駒など県内のあらゆるスキー場を周り、秋田の雪の魅力を体で知ることになる。
ある高校のスキー部の先生に「うちへ来ないか?」と誘われ、スキー推薦で高校へ進学。しかし、その後、アルペンではなかなか思うような結果が出せなかった。
「ずっとやわらかい雪を滑ってきたからか、ガリガリのアイスバーンに苦戦して、思うようなタイムが出せずに挫折しました。自分を誘ってくれた先生に申し訳ない気持ちと、自分への歯痒さで、つらかったですね。やめようと思ったこともあったけど、やっぱり雪が好きで、今日までずるずる続けています」
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スキーが救った命・取り戻した自分
高校卒業後は、アルペンから基礎スキーへシフトした。
「幼い頃から保安職業に憧れがあり、自衛隊の道に進みました。どうしても雪があるところで暮らしたかったので、勤務地は北の地方に希望を出しました。入ってみると、仕事をしながらオフはスキーを続ける環境があり、自然と競技に打ち込むようになりました」
いつしか全日本スキー技術選手権を目指すようになり、努力の甲斐あって出場権を得た。一度挫折して、嫌いになりかけたスキーを自分らしく取り戻した。そして、今度はそのスキーに命を救われることになる。
「海上自衛官を3年続けたころ、人間関係で悩み、鬱と診断されました。当時は、毎日死にたいと思っていた。そんなわたしを見かねて、スキー仲間たちが『元気だせえ』って八甲田山BCへ連れて行ってくれました。忘れもしない4月1日。降りたてのフレッシュパウダーで、天気はピーカン。樹氷に覆われた八甲田から岩木山、八幡平、森吉山まで故郷の山々を望み、心が洗われた気分になって、人目を憚らず、わーって号泣してしまいました。こんな綺麗な景色が見られるなら、もう少し頑張って生きてみようと思ったんです」