故郷・東北の山へ恩返し 今日もわたしは山に登る|バックカントリーガイド 佐藤真理子-Spur akita mountain guide-

東北の雪山が人生を転がしていく

この山行を機に、故郷・東北の雪山が佐藤の人生を転がしていく。「環境を変えないともうダメになってしまう」と意を決して、退職。数年後、どうやって生きていこうかと考えたとき、スキーを活かせる仕事につきたいと思った。雑誌やインターネットで情報を集めると、山岳スキーを生業とするバックカントリーガイドという存在を初めて知る。

「へー、こんな仕事があったんだと目から鱗が落ちる思いでした。わたしの心が浄化された八甲田や小さい頃から見てきた鳥海山を仕事場にして、いろんな人へ紹介できる。なんて素敵な仕事なんだろうと思いました」

新潟県妙高市にある国際自然環境アウトドア専門学校(以下i-nac)のホームページに辿り着き、学校見学へ出向くことに。

「2学年上の女性が在学生でいて、『29歳なんて、全然遅くないよ。やりたいならチャレンジしなよ』と背中を押してもらって、入学を決意しました。今、彼女は山岳プロ学科の講師をされています」

SA Jの公認指導員という立場でスキーに携わることもできただろう。なぜ厳しい雪山の世界を仕事の舞台に選んだのだろう?

「ゲレンデでスキーを教えて、お金をもらうという仕事も経験しましたが、生業として成り立っていくイメージが持てませんでした。指導員は、技術を見せながら、言葉でも滑りを説明しなきゃいけない。体の動きを言葉で表現する部分が、自分は苦手でした。そしてなにより、人で賑わうゲレンデよりも静かな雪山が気持ちよく、自分に合っていました」

i-nacバックカントリー実習・講師は佐々木大輔氏

四季が濃い妙高高原での学生生活は、毎日が夏休みのようで楽しかった。学校の前で焚き火やキャンプをしたり、除雪で集められた雪山を雪板で滑ったり。しかし、登山ガイドになる厳しい現実を突きつけられ、めげることも多かったという。

「北海道の国際山岳ガイド、佐々木大輔さんが特別講師として来られたとき、高妻山へテントを担いでスキーに行きました。女性は私だけで、重い荷物と深いラッセルでバテバテ。『佐藤ちゃん、100歩ラッセルお願い』と言われたけど、ペースが速すぎて、肺が追いつかず、80歩しか歩けなかった。そのときの悔しい思い出が、今につながっています」

高卒や20代の男子たちと、同じ状況で授業を進めていかなければいけない。体力的にしんどかった。山が楽しめなくなってきた。そんなとき、特別講師でお世話になった国際山岳ガイド黒田誠さんの言葉が、今でも頭から離れず、ガイドを続けている支えと、指針になっている。

『山は、男だろうが、女だろうか、手加減してくれない。苦手分野は継続すれば、報われる。山が好きなら、頑張れ』

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その強い信念と郷土愛が周りを動かす

 スキーが呼び寄せる素晴らしい出会いは、これだけでは終わらなかった。

「在学3年生のとき、岩木山へスキートリップに出かけました。山中で偶然IWATE BACKCOUNTRY GUIDESの髙橋考精さんと出会い、東北でガイドをしたい旨を伝えると『じゃあ、うちでテールガイドをやらないか?』と声をかけていただきました。在学中から3シーズン、高橋さんのところでサブガイドとして働かせてもらい、現場での立ち振る舞いやノウハウを学ばせていただきました」

IWATE BACKCOUNTRY GUIDESでサブガイドをしていた頃の様子

在学2年生のときのインターンでは、八甲田ガイドクラブの門をたたき、山荘で寝泊まりしながら隊長の相馬浩義さんのもと、約3週間働かせてもらった。八甲田を選んだのは、自衛隊時代に命を救ってくれた絶景が頭に残っていたからだという。

独立して間のなくのコロナ禍でスケジュールが真っ白になったときは、石井スポーツ秋田店の小山内春人さんの好意でアルバイトをさせてもらった。専門学校を卒業して秋田へ帰ったとき、「これからお世話になるだろうから」と挨拶に行っていたのだ。さらに小山内さんの紹介で、今シーズンからスウェーデンのハンドメイドスキー「エクストレムスキー」と、同じく北欧生まれのウェア「エレヴェネート」をサポートしてもらうことになった。

29歳の春、3年後には秋田に帰って鳥海山をはじめとした東北の山々を案内できるガイドになろうと決めて妙高へ旅立った。その強い信念と、郷土愛を持った佐藤を東北の諸先輩方は、心から応援してくれたのだろう。