ユニバーサルデザインを推進する企業で、GASを使った業務改善を担当している江畑早苗(えばた)さん。今のキャリアに辿り着くまでには、たくさんの紆余曲折と、辛く苦しい日々がありました。かつての自身を振り返り「重度障害者である長男を産んだ日から、人生が分断されてしまったように感じた」と語るえばたさんは、どうやって自身のキャリアを取り戻したのでしょうか。
「みんなが普通に持っているものを持てなくなった」喪失感と孤独感
ーーえばたさんのキャリアはどこからスタートされたのでしょうか?
私は大学を卒業した後、「制服がかわいい」という理由で地元の建設会社に入りました(笑)。しかし入社後、その会社では女子社員には雑用以上のことを求めていないと気づき、システム開発の会社に入りました。何か手に職をつけたいと思ったものの、未経験の新卒にスキルを教えてもらえるのはプログラミングくらいだったんです。
実際、プログラミングをしている時間は全体の2割くらいで、残りは開発テストや仕様書の読み書き、帳票レイアウト、工数管理などの周辺業務でした。1つのシステムを正しく動かすには、プログラミング以外にもたくさんの調整や工夫が必要なんだと知りました。勤務したのは3年間、大きい会社だけあってたくさんのことを学べました。
でも当時は、「私ってプログラミング向いてないな」と感じていました。何人も集まってチームになって仕事を進めるので、それぞれが作ったパーツを寄せ集めてシステムをつくっていくやり方だったからです。誰がどんなやり方をして作ったものなのかわからないし、使う人の顔も見えないので、手応えがないように感じていました。
ーーその後結婚・出産をされます。一度家庭に入ったのはなぜですか?
結婚し、2003年に長男を産みました。その後10年間は、仕事を退職して、ずっと子育てにかかりきりでした。というのは長男に障害があるので、療育やリハビリに通う必要があったんです。
療育への付き添いや送り迎え、家でのケアなどを考えれば、私が仕事をするなんて夢のまた夢でした。いわゆる福祉サービスも、今よりは全然整備されていなくて。周りを見渡しても、障害児を育てながら働いているお母さんはいませんでした。
生後5カ月の頃、NICUで。「息子は妊娠24週目に670グラムの超未熟児で生まれました。生後の脳内出血、未熟児網膜症により、身体・知的・視力に障害があります」(えばたさん)
産後の10年間は、本当に苦しかったです。自分のキャリアが分断されてしまって、働きたくても働けないし、20代の頃に学んだプログラミングを活かす場はなくなりました。子どもとの日々に幸せを感じながらも、「働けなくて悔しい」といった気持ちが抑えられず、息子の世話に時間を捧げる生き方しか、もう私にはできないのだろうか……と感じてしまって、とても苦しい時期でした。
ーー思いがけずキャリアの道を閉ざされてしまうのは、すごく苦しかったですね。20年前、障害児やその親を取り巻く環境は、今と違っていたのでしょうか?
そうですね。当時は、多様性とかダイバーシティの概念も今ほど一般的じゃなくて、「障害者=かわいそう、つらい人生」という偏見がすごく強かったように思います。実際私も、長男に障害があるとわかったときは正直「恐ろしい出来事が起きてしまった……」という感覚でした。
つらかったことの1つが「マイノリティ側に押し込められてしまった」という感覚です。周りからも「かわいそうな子、かわいそうなお母さん」という目で見られているように感じて。私はマイノリティ側になったんだ、行きたくないのに行かされてしまったという恐ろしさと、孤独感にさいなまれる日々でした。
今思えば、障害者の生活を知らなかったことも一因でした。当たり前ですが、障害者も普通の日常生活を送っています。一度それを知ってしまえば、この生活も全然悪くないし、むしろ味わい深い子育てだなと思えます。でも当時は、息子に障害があるからたくさんのことを諦めなきゃいけない、みんなが普通に持っているものを持てなくなってしまったという喪失感だけが、ことさら大きく思えたんです。
私は仕事を諦めなきゃいけないという悔しさ、むなしさも大きかったです。いずれ自分が仕事を持ち、キャリアを築くようになるなんてまったく思っていませんでした。
療育園でのひとこま。「この頃は毎日のように療育園とリハビリに通っていました」(えばたさん)
就学前の障害児たちが集まる療育に通い、私と似た状況のお母さんたちと友達になりました。療育は、子どもの教育の場でありながら、保護者が心を安定して子どもに向き合えるようになるための機会でもあるんです。療育で得た友人は、混沌とした時期を一緒にした仲間として今でも深い絆があるし、戦友という感じです。
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「私はキャリアとは無縁」と自分に言い聞かせ、悔しい気持ちに蓋をしていた
ーー産後、一度はキャリアを諦めることとなったえばたさん。もう一度働くことが現実的になってきたのは、いつごろのことでしたか?
長男が10歳になる頃、少しですが自分の時間ができるようになり、時短で働けるパートタイマーの仕事を探しました。当時の私が選べる仕事はごく一部でした。毎日2人の子どもを学校や病院に送迎する必要があったので、フルタイムの求人は選べません。私の労働条件に合った求人を出していた建設会社で、キャリアを再スタートすることにしました。
もう一度、短い時間であれ働けるということがとにかくうれしくて。私も人の役に立てるし活躍できるんだとわかって、自信がつきました。それがだんだんと息子の存在を受け入れることにもつながっていったように思います。
一方で、キャリアアップの難しさも痛感しました。支援学校は通常学校に比べて在校時間が短い分、お母さんが働くハードルが高いんです。親はしょっちゅう学校に行かないといけないし、先生と頻繁に連絡を取り合う必要もありました。
キャリアアップの前提としてフルタイム勤務が求められていたので、私にとって必須条件である「勤務時間」を満たそうとすると、それは諦めなきゃいけない。このジレンマは大きかったです。だから「キャリアは自分とは無縁のもの」と思うことで、悔しい気持ちに蓋をしていました。
子育てに専念していた当時のえばたさん。笑顔の裏には、喪失感や孤独感、絶望感があったといいます。
また、前職で学んだプログラミングも、出産後は全然活かせませんでした。プログラマーの求人はフルタイムのものばかりで、子育てと両立しながら働くなら事務職一択という時代だったんです。せっかく仕事をできる環境になったのに、私自身の経験やスキルが活かせるようなキャリアにはほど遠い。その現実に、「働けるようになったんだから、高望みなどしてはいけない」と自分に言い聞かせながらも、納得できない気持ちでいました。
20代の私が頑張ったことや努力の成果が、全部無駄だったと思えて、すごく虚しくて。「私の人生は出産を境に分断されてしまった。出産前の私と今の私には何のつながりもない、違う人生だ」と感じました。私自身の力を生かして社会で活躍する未来がまったく見えないという絶望感です。産前の私が、はるかかなたの遠い存在のように見えました。