〈ご当地ラーメン日本一〉震災後の風評被害を乗り越え、74歳店主が「白河ラーメン」でつかんだ45年目の栄光

「日本ご当地ラーメン総選挙2024」で福島県の「白河ラーメン」が日本一に選ばれた。昨年から開催されている同イベントはご当地ラーメンの日本一を決めるべく、国内の2大ラーメンイベントといわれる「東京ラーメンショー」と「大つけ麺博」によるコラボ企画だ。優勝した「白河ラーメン」で出店していた「火風鼎」の店主・小白井邦夫さんは今年74歳。
ラーメンに人生を捧げた男の日本一までの軌跡とは。(前後編の前編)

日本一のご当地ラーメン店主の素顔

昨年は山形県の「酒田ラーメン」が日本一を勝ち取り、今年は福島県の「白河ラーメン」ということで、札幌や博多という強豪を抑えて東北が連覇という形になった。

今回、白河ラーメンで出店したのは「火風鼎」(かふうてい)というお店だ。1980年創業の老舗で、店主の小白井邦夫(こしらい・くにお)さんが一代でその地位を築き上げてきた。

油分が少なく鶏、豚の旨味溢れるスープに、パワフルな手打ち麺が特徴。表面にざらつきがあって主張の強い麺で、他では食べることのできない食感。まさに唯一無二の国宝級の麺である。イベントでもお店そのままのクオリティの1杯を提供し、多くのお客さんの心を打ち、悲願の日本一を獲得した。

店主はどんな人物なのだろうか。

「火風鼎」店主の小白井邦夫さんは1950年に白河で生まれ、実家は靴屋を経営していた。邦夫さんが幼い頃、このエリアにはラーメン店はまだ2~3軒しかなく、ラーメンはごちそうだったという。

白河で最も古いといわれるラーメン店「茶釜食堂」が創業したのが1940年代で、まだ白河にラーメン文化が根付く前の時代である。邦夫さんは小学生の頃からラーメンが大好きで、高校時代には北海道に味噌ラーメンというものができたと知り、白河から自転車で食べに行ったそうだ。

その後、東京・上野にあったテレビ技術の専門学校に通い、パソコンやプログラムを学んでいたが、白河に戻り、ボウリング場で仕事をしていた。結婚後、奥さんの実家のお土産寿司を販売している寿司店で働き始めた。そこで3年間働いたものの、お店の経営に限界を感じていたという。

「ある日、お店の常連さんでラーメン屋を営んでいる人がいて、そのお店の仕込みを見せてもらうことになったんです。朝5時から仕込みをしていて、それを5日間見せてもらいました。そのとき初めて製麺用の小麦粉を触らせてもらって、それがラーメン作りとの出会いでしたね」(邦夫さん)

昔からラーメンが好きだし、自分でもやってみたいと立ち上がり、その1年後、1980年に「火風鼎」をオープンした。座敷席もある立派なお店で、1杯350円のラーメンが1日30杯ほど出た。近所に出前もしていたという。

しかし、駐車場もない不便な場所だったことや、知識がないまま始めたこともあり、味が安定せずに2年半で閉店することになる。

閉店後、白河駅前の場所に移転して再びお店をオープン。カウンター6席のみの小さなお店で、出前も続けた。狭いお店だったが、立地がよく、1日3万円の売り上げになった。移転前の3倍の売り上げだった。

(広告の後にも続きます)

自分からラーメンを取り上げたら何もなくなる

この頃、同じ福島の「喜多方ラーメン」が大ブレイクし、後にこのエリア一帯のラーメンは「白河ラーメン」と呼ばれるようになった。当時は白河には製麺所がなく、手打ちで麺を作るのが当たり前だった名残で、「白河ラーメン」というと「鶏ガラ」「手打ち麺」というのがお決まりになっていった。

「麺のほうが先に完成に近づいたものの、知識がなかったため、なかなかスープが追いつかない日が続きました。さらに、オープン当時は豚骨は無料でもらっていましたが、喜多方ラーメンがブレイクしたことで有料になってしまい、なお儲からなくなって大変でしたね。

その後、駅前にあった企業が移転したこともあり、客足が一気に減って、もう一度移転を余儀なくされました」(邦夫さん)

こうして1990年、現在の場所(白河市鬼越)に2度目の移転をする。もう1回、一からやろうと味を見直し、落ち込んだ売り上げも回復し、1日10万円売れるようになる。駅前で調子がよかった頃の3倍以上の売り上げである。

「場所がよかったのか、腕がよかったのか(笑)。国道沿いということで地元の方以外でも遠方から来やすい場所だったというのも大きかったですね。
テレビや雑誌で紹介されてからは遠方からのお客さんが増えて、今は常連さんは1~2割で、8~9割は遠方からですね」(邦夫さん)

お店が忙しくなり、家族経営で奥さんのほか、娘、息子も手伝うようになった。息子の誉幸(たかゆき)さんは小学生の頃から「将来はラーメン屋になる」と言っていた。テレビのローカル局では毎週ラーメンのコーナーができ、いろんなお店が紹介されることで、いつしか白河はラーメンの町になっていった。

「うちは弟子はとらずにここまでやってきました。子どもたちにも手伝わせているだけで、特に何かを教えてきてはいません。ラーメンは教えるものではない。見よう見まねでできていくものだと思っているので。そうやってだんだん自分のラーメンが見えていくんです」(邦夫さん)

2011年、東日本大震災が起こり、福島県は甚大な被害を受けた。地震による被害も大きかったが、何より風評被害が大きく、マスコミも福島県のラーメンをまったく取り上げなくなった。

自分からラーメンを取り上げたら何もなくなる。

そう思っていた邦夫さんは、売り上げのない時期は補償金で食いつなぎながら、絶対に人には真似できないラーメンを作り上げなければいけないと決心を固くした。これからも生きていくためには、いつか戻ってくるお客さんのためにラーメンの味を磨くしかないと考えたのである。