日本は「上から降ってきた民主主義」を敗戦で享受した、韓国は「命懸けで希求した民主主義」を闘争で勝ち取った――。大学の授業で「民主主義の日韓比較」をテーマにすると、学生たちの議論はおおむねこのような方向で落ち着く。特に、韓国人留学生は「勝ち取った民主主義」という意識を強く持っているようだ。の今回の「戒厳令騒動」を韓国の政治に詳しい小針進氏に解説してもらった。
「勝ち取った民主主義」という韓国人の認識と合致せず
民主主義に対して多くの韓国人が持つ意識を考えると、12月3日22時23分に「緊急対国民談話」として明らかにした尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の行動は、まったく理解に苦しむものだ。
墓穴を掘るようなもので、尹錫悦氏は政治的な判断ミスをしたといってよい。次が談話の一部だ。
次が談話の一部だ。
私は北朝鮮共産勢力の脅威から自由大韓民国を守護し、韓国国民の自由と幸福を略奪している破廉痴な従北反国家勢力を一挙に拾い、自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣言します。
私はこの非常戒厳を通して、亡国に陥っている自由大韓民国を再建して守ります。
そのために、私はこれまでに悪質な行動をした亡国の元凶反国家勢力を必ず剔抉します。これは、体制転覆を狙う反国家勢力の蠢動(しゅんどう)から国民の自由と安全、そして国家持続可能性を保障し、未来世代にきちんとした国を譲るための避けられない措置です。
「勝ち取った民主主義」という表現は使っていないものの、従北勢力(北朝鮮に追従する集団を意味する)から民主主義を守るための行動だとは言っている。
ところが、戒厳司令部が大統領の談話後に布告した措置には、国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる、すべての言論と出版は戒厳司令部の統制を受けるといった内容が含まれている。
まさに、「勝ち取った民主主義」を覆す、時計の針を巻き戻すような行為なのだから、「炎上」するのは目に見えていた。
戒厳令が韓国で出されたのは、1980年5月17日以来、44年半ぶりのことだった。この時も、民主主義を守るという名目で同じような措置が発表された。
同措置は軍が前面に出ることを意味した。これによって、1979年10月26日に強権的な大統領だった朴正熙(パク・チョンヒ)氏の死によって訪れた「ソウルの春」(当時を描いた同名の映画が、今年は日本でも上映された)と呼ばれる民主化ムードは、崩壊した。
今回の大統領談話に抗議するため、零下1度の国会議事堂前に老若男女が明け方まで集まったそうだ。「国会にまた軍人が来るとは考えもしなかった」と述べる人もいた。
44年半前のことが「集団記憶」となっているからだ。韓国メディアは、期末試験を翌日に控えた高校生もやってきた様子を伝えていた。若者も「勝ち取った民主主義」を認識しているからだろう。
政界も同じ動きを見せた。野党議員だけでなく、国民の力(与党)代表の韓東勲氏も、同党所属のソウル市長や釜山市長も、大統領談話に反対する声明をすぐに発表した。
さらに特筆すべきは、戒厳令を受けて国会にやってきた警察官は議場へ議員たちが入ることを阻止しなかったし、軍人も本格的には建物内には進入せず、もみ合い程度の対応しかしなかったことだ。「民主主義下の成熟した軍の姿勢を見せた」とも評されている。
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なぜ尹錫悦氏は戒厳令を宣布したのか
韓国社会がこんな光景になるのはわかりきっていた。なぜ尹錫悦氏はこうした談話発表に踏み切ったのであろうか。
戒厳令に関して、憲法には「国会が在籍議員過半数の賛成で戒厳の解除を要求したときには、大統領はこれを解除しなければならない」(第77条5項)という条項がある。実際に、野党が3分の2近くを占める国会では、4日未明に戒厳令解除を大統領へ要求する法案を可決した。大統領も4時27分にこれを受け入れて、戒厳令を解除するに至った。
検察総長出身の尹錫悦氏がこうした仕組みを知らないわけがない。
まず考えられることは、尹錫悦氏が正常な判断能力を失っている可能性がある点だ。
国会は、定数300議席のうち、170議席を占める「巨大野党」である共に民主党が牛耳って、「野党のやりたい放題」の状態が続いてきた。大統領中心制ではあっても、これでは法案の通過もままならない「二重権力」のような構造であって、相当なストレスを感じているであろう。
これまで大統領が任命した閣僚が22名も弾劾の訴追を発議されるなど、「世界のどの国にも類例がないだけでなく、我が国が建国以降に全く類例がなかった状況」(大統領談話)なのは事実であって、政権運営がにっちもさっちもいかないのだ。
しかも、大統領夫人の金建希氏をめぐる数々のスキャンダル(株価操作、政治ブローカーとの結託、違法性のある高級バッグ授受など)をめぐって、野党やメディアから追及を受けている。尹錫悦氏は夫人をかばって、その追及を「政治攻勢」とかわしているが、「もはや失うものはない」と自暴自棄になっているきらいすらある。
他方、大統領制だからこそ、尹錫悦氏はこのような談話を発表できたという側面もある。韓国の著名な政治学者は、次のように評している。
「大統領こそが国家経営を左右し、『選出された皇帝』なのである。過去の権威主義時代に比べて恣意性がかなり減ってきたものの、それでも議院内閣制とは雲泥の差である」(金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』柘植書房新社、2007年)。
尹錫悦氏が大統領になった早々、筆者が「選出された皇帝」を感じたのは、大統領執務室の移転を実施した時だ。文在寅政権までの大統領官邸(青瓦台)は、ソウル中心部の古宮・景福宮の背後に御殿のようにそびえていた。
国民との距離を縮めて、実務を重視する立場から、尹錫悦氏は「脱青瓦台」を大統領選の公約にしていた。2022年3月10日の選挙で大統領に当選すると、青瓦台から6キロ離れた龍山地区へ移す計画を同20日に発表し、5月10日の政権発足には、移転させてしまった。前政権との差別化を意識して急いだのだろう。
もし、日本で首相官邸を移すとなったら、2か月で実現させるのはまず無理だ。
尹錫悦氏が談話発表の1時間程度前、国務会議(閣議)を招集し、本件を審議したところ、韓悳洙国務総理をはじめとする閣僚の大半が反対したという(『朝鮮日報』電子版12月4日付)。
それでも、談話発表を強行したのは、国務会議の同意なしに、大統領権限だけでできるからである。たしかに、憲法では「大統領は、戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において兵力により軍事上の必要に応じ、又は公共の安寧・秩序を維持する必要があるときには法律の定めるところにより戒厳を宣布することができる」(第77条1項)となっており、会議を組織して決定する仕組みは書かれていない。
尹錫悦氏の国政運営スタイルは、そもそも変化球は使わずに、直球ばかりだ。しかも、制度的には、大統領がひとりで行っても構わない。だからこそ、こんな事態を招いたのではないだろうか。