『霜夜』成立の根底には
「週刊少年ジャンプ」があった
―― 各話のゲストについて伺いたいのですが、『破曉』にも登場する夏目漱石が「活字」で再登場するのはなぜなのでしょうか。
『破曉』にも夏目金之助は出てきますが、名前だけです。視点人物が漱石と同じ本を奨められるというだけ。だから最終巻には漱石本人を出そうと決めていました。明治四十年だと、専業作家として小説を書き始める時期なので、漱石は教師の重圧から解放されて嬉しかったでしょうし。新しい仕事について迷っている甲野に対して「活字はいいぞ」と言ってその気にさせる役目には適任じゃないかと。そもそも私は漱石の小説に非常に影響を受けているんですね。文豪なんだけど、格調高いというより軽妙さをもって時代に受け入れられた人ですよね。『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』は、近代小説の形が定まって以降に書かれていたら、ただのユーモア小説と評価されていたかも。人としても面白いですし。
―― 次の「複製」は日本近代美術の確立者である岡倉天心です。
錦絵のようなものと書籍って、別物ではあるんですが、角度を変えて見れば同じものでもあるんです。例えば、漫画雑誌って昔は読み捨てが当たり前でしたよね。昔の「週刊少年ジャンプ」なんか酸性紙に刷られていて、二十年もすると裏抜けがして読めなくなるから、みんな捨ててました(笑)。でも今、漫画は日本の誇るべき文化です。古書価も高いし、原画展が開催されたりする。評価軸がまったく変わっちゃった。浮世絵も同じです。浮世絵って、今でこそ美術品として大事に扱われてますが、当時は紙屑として捨てられてましたからね。浮世絵は昔の「ジャンプ」と同じなんですね。その価値を語らせるには、当時から浮世絵を評価し、大衆芸術として位置付けるべく「浮世絵概説」なんかを書こうとしていた天心がいいだろうと。
―― なるほど、それで浮世絵ですか。
浮世絵は明治から大正期にかけて海外で評価が高くなって、それで国内評価も上がったんですよ。この国ではどういうわけか、海外で褒められると慌てて自国内の評価も上げるという不思議なことが起きる。自分のいいところを自分で気づけないというおかしな一面がありますよね。浮世絵もその一つです。
―― 第三話「蒐集」に登場するのは帝国図書館初代館長の田中稲城 ( いなぎです。大量印刷の時代に公共図書館が出現するというのは、改めて指摘されると、なるほどと納得しますね。
中島京子さんが『夢見る帝国図書館』(文春文庫)というとても素敵な小説を書かれています。あの作品を読んで、国家的な施設である帝国図書館と個人の蔵書家が抱える悩みがまったく同じだということを思い知らされました。本が増えると書棚に入らない。お金がないと本は買えない。田中稲城の悩みって我々の悩みなんですよ。蔵書という概念も、この頃にできたもののはずでしょう。それ以前は、一般家庭に書架なんてなかった。この時代から民間の蔵書家というものが誕生し、本の置き場がないという悩みが出現したわけで。
―― 永遠の悩みが。
帝国図書館は、戦争のせいで規模は縮小されるわ、予算は削られるわでさんざんな目に遭います。もし日本が戦争なんて愚かしいことをしていなかったら、もっと立派な国会図書館が今頃はあって、日本中の人が喜びながら通っていただろうと考えると忸怩 ( じくじたるものがありますよ。だからこそ田中稲城に一言語らせたかったのですね。
―― 次の「永世」には朝の連続テレビ小説「らんまん」で主人公になった植物学者・牧野富太郎が登場します。しかし『書楼弔堂』では「らんまん」以前から名前だけですが登場していましたね。
これも「少年ジャンプ」ですよ(笑)。僕は一九七〇年前後の「ジャンプ」は捨てずに保存してます。故・水木しげるが『悪魔くん復活 千年王国』を連載していたからです。当時の「ジャンプ」は紙が悪くて、保存環境に関係なく経年劣化がひどい。あと三、四十年もすると完全に読めなくなってしまうかもしれません。かつてのテレビ番組は、ビデオテープが高価だったため、次々上書きされていた。当時の番組の中には映像が現存しないものも多い。それを知ったときはショックでした。最初からないならともかく、あるものがなくなるとは情けない。今あるものはいつまで保つのか問題というのが、子供時代から私の中にはずっとあるんです。
―― ああ、だから植物標本で牧野富太郎なんですか。
標本はいずれ朽ちますが、牧野は絵も描いてますよね。しかも印刷まで学んでる。でもそれで満足したかというと……どうなんでしょう。それでもそれがいつまで残るのかという不安がこみ上げてきたのじゃないか。僕もかつてはテレビ番組を一生懸命エアチェックしてましたけど、ご存じの通りビデオテープの時代は終わりました。デジタル化したって永遠ではない。完璧な保存手段などないのだと思い知らされて侘しくなった僕と、牧野も同じ気持ちになったのではないかと。
―― ご自分が重なりましたか(笑)。
心配はあったと思うんですけどね。あれだけたくさんのものを分類・整理し、保存していた人であれば、絶対同じような懊悩を持っていたはずです。さっきの田中稲城もそうですが、本好きなら少なからず、この蔵書をいつまで持っていられるだろう、と考えるんじゃないですか。でも甲野のようにもともと本に関心がない人は、そんなこと考えもしない。両者に話をさせたら絶対嚙み合わないんですよね。思えば、これも私は「少年ジャンプ」で気が付いたんですよ。絶対に大丈夫だと思っていたら紙が裏抜けして読めなくなってしまった「ジャンプ」から。明治の頃なんて紙はもっとひどいですからね。いい紙を使って、印刷も綺麗にしたほうがいいですよ。確かに業界を維持するためには出版社が儲けなければいけないんだけど、きちんとした形で本を売ってちゃんと読者に届けるという形で儲けるべきなのであって、いたずらに原価を下げようとするのは間違っていますよね。本はある程度高い値段でも、買う人はちゃんと買うんです。安けりゃいいってものではない。バブルからこっちの四十年ぐらい、出版社の人たちはいろいろ方向性を見失っている感がありますが、その萌芽がこの当時すでにあった気がする。電子書籍が出てきてから紙の本という呼び方ができましたが、その割に紙はあまり注目されていないですよね。紙にもいろいろあって、デザイナーだっていろいろ考えて用紙を決めている。品質のみならず仕入れ価格も違う。その苦労をご存じですか、という気持ちをこめております(笑)。
―― 次の「黎明」は他の話と少し毛色が違うように感じました。言語学者の金田一京助がゲストですが、彼が取り組んでいたアイヌの問題が取り上げられます。
金田一京助は私らの世代では辞書を作っている人として有名でしたが、基本的にはアイヌ語学者です。しかし、ずいぶん研究対象とは揉めてますし、批判もされています。民族の問題というのはデリケートなもので、差別的な言論は論外としても、単純に価値観を押しつけあうようなことをしてもいけないでしょう。そこに関しては現代でも未解決というよりない。だから金田一京助をアイヌ語学者として持ち上げるだけですませることはできなかったんですが、ただ『霜夜』の時代の金田一は、樺太 ( からふとから帰ってきたばかりで、俺はアイヌ語研究で生きていく、と決めた直後ですからね。甲野は甲野で、いろいろな人に話をされて混乱しているんですが、その甲野が、好きにしようと決めたばかりの金田一と出会う、という話なんですね。それが正しいかどうかは別として、好きにすることで目の前の霧が晴れたような気持ちになる。だから「黎明」なんですけどね。
―― なるほど。
黎明は単に明るくなってくるだけで、その後で雨が降るか雪が降るかはわからんのですよ。兆 ( きざしにすぎなくて、結果は見えない状態ですよね。ここまで条件が出そろったら出版文化はなんとか形になるだろうという予兆はありますが、まだどうなるかはわからない。今の出版業界はこの形でいいのか悪いのかはわからない。そういう不確定な部分は示しておかなきゃいけないなと。最終話でやると暗くなりますし。
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キャラクターは京極小説の核ではない
―― そして大団円となる「誕生」です。
最終話「誕生」は一回書き直しています。本当は釈宗演 ( しゃくそうえん回でした。釈宗演が弔堂に行って、禅問答のようなことを繰り返すのを横で甲野が聞くという。ただ、書いてみたはいいものの、これが面白くないんですよ。いや、書くのは面白かったんですけど、多分作者以外の人は面白くない。坊主と坊主の闘い、僕は得意なんです(笑)。でも、わかりにくい。だから釈宗演はちょい役に落として書き直しました。
―― 最終話らしく、前の巻に出てきた懐かしい人も顔を出しますね。
最終回だから全員出しました、みたいなほうが、坊主が禅問答で形而上的な謎かけをするよりはいいでしょう。私はそんな高尚な小説を書きたいわけじゃないし(笑)。それから、ある人物は、名前こそ出していないけど、すでに〈百鬼夜行〉シリーズにも登場しています。だから〈書楼弔堂〉でそうなった経緯を説明しておかなくちゃいけなくて。
―― 改めて振り返ると、明治二十五年から四十一年が日本の出版史上極めて重要な時代であったことがよくわかります。これで弔堂とお別れというのは少しさみしいですが。
書籍流通の仕組みができ上がるまでを見届けたら、お役御免ですから。まあ、弔堂は作中、北へ向かうと言ってます。北に何があるのか、ということはまたいつか。
―― いや、気になりますよ! でも毎回思いますけど、京極さんはいつも魅力的なキャラクターを作られますが、そのキャラクターは絶対小説の中心にならないんですよね。
キャラクター小説も面白いんですけど、基本的に構造は全部同じになるので、書き手としては飽きちゃうんですよね。キャラクター小説自体は魅力的なジャンルなので、僕じゃなくて他の誰かが書いてくれればいいと思ってしまう。
―― 本作も真の主人公は書籍流通の仕組みなんですよね。弔堂自体は巨大な空白に近い。
〈書楼弔堂〉シリーズに登場する歴史上の人物は、ある程度史実に基づいて書かなければいけない。僕が勝手に作っていいわけではないんです。実はそっちのほうがはるかに面倒くさいんですけどね。だから、それ以外の人間はなんでもいいわけで。主人は流通の化身みたいなものだし、語り手はどうしようもない人たち。これ、実在の人物が出てこなかったら、本当につまらないですよ。小僧の撓はよくわからない子ですしね(笑)。
―― シリーズを振り返ってみて、最初の構想から何か変わったことはありますか。
僕は最初に決めたまんま全部書いちゃうので、途中で話をいじって変えることは通常あまりないです。だから最初に考えた通りではあるんですが……間が空くと忘れちゃうこともある(笑)。本来甘酒屋は死んでたような気もしますね。作者の肚づもりとしては、もっと夏目漱石のような軽妙な感じにしたかったな、という思いはありますね。最初のほうが少し硬いんですよね。『待宵』なんかは、憎まれ口をたたくじじいが出てきて、僕はそういうじいさんが大好きなので筆が滑ってる気もしますが。だから殺さなかったのか(笑)。
―― デビュー30周年にあたる本年は、〈巷説百物語〉シリーズが『了 ( おわりの巷説百物語』で完結しました。同作では妖怪を仕掛けに使うことが不可能な時代に入り、登場人物たちが一斉に退場して、活躍の場はもう物語の中だけになるだろう、と宣言して終わりました。弔堂が自分の役目を終えて消えるという本書の終わり方には同書と共通するものを感じます。
『鵼 ( ぬえの碑 ( いしぶみ』『了巷説百物語』『書楼弔堂 霜夜』は間を空けずにほぼ続けて書いていますから、どこか似てしまったのかもしれませんね。『了巷説百物語』も『霜夜』もやるべきことはやったからおしまい、という内容で湿っぽくはないのですが、これで最終回、はい、さよなら、と作者が肩の荷を下ろした感じは少し出てしまっているかも(笑)。