脱サラしてニセコに移住を決めた
「東京に就職したんですけど、自然好きが抜けなくて。週末は山登り、スキーばかり行ってたんです。でもサラリーマンスキーヤーって週末しか滑りに行けないとか、やっぱり大変じゃないですか。もっとスキー滑るために移住したいと真剣に思って、それで35歳のときにニセコにやって来たんです」
鎌田諭(かまた さとし)さん。ニセコ町に工房を構える「Niseko Glove」のファウンダーだ。鎌田さんは、いまから2年ほど前、2022年8月に一人で事業を立ちあげた。東京のビジネスマンが脱サラで地方で起業、というのは、そう珍しくもない話に聞こえるが、たいていの場合どこか危なっかしい匂いのするものだ。
しかし、鎌田さんには確固たる信念とクリアなビジョン、そしてなにより「手に職」があった。その背景にはどのようなプロセスがあったのだろう。
「僕、出身は秋田なんです。両親がアウトドアが好きだったので、いつもキャンプに行っていて、冬には小さな頃から毎週末、山に行ってました。自然が大好きな子どもだったんで大きくなったときに、東京に出るのはあまり気乗りしなくて、札幌の大学に進んだんです。大学では、基礎スキー部に入って大会にも出たり、ものすごく熱心に滑ってました。
卒業とともに札幌を離れて東京へ就職するっていう学生が多かった。僕もなんとなくその流れで東京に出ました。その当時、モノづくりに興味が湧いて、繊維メーカーに就職、ポリエステルなんかを作っていました。都会でサラリーマンを12年やったけれど、30歳を過ぎたら自然に近いところで暮らしたくなったんですよね。
札幌での大学生時代、基礎スキーだけじゃなく、パウダーや森のなか、自然地形で滑るようになったんです。するとやっぱり雪がよくて長く滑れるところ、自然が豊かなところのほうが楽しいなって。それはニセコや大雪山だと思って。移住のタイミングでグローブ作りを仕事にしようということは決めていたから、ニセコなら札幌にも近いし、グローブと良いイメージも結びつきやすいかと思ったんですよね」
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どうしてグローブを?
「もともとモノづくりに興味があって、東京の繊維メーカー勤務時代も「つくる」ことをずっと続けていました。移住しても、なにかを作る仕事をしようと思っていて、大好きなスキーに関わるモノづくりをしたいって考えたんです。そのとき、自分で一番小さく始められるのは手袋かなと。
板は大きな設備や緻密で膨大な作業工程が必要になるし、ウエアは自分の専門性は活かせそうだけれど、なにせスペースなどの物理的条件が厳しい……。調べてみると、当時、雪国でグローブを作っている人はほとんどいなかったので、雪国から発信するグローブ屋さんもいいんじゃないかなって。それに、僕、もともと手が小さくて、自分に合うものがあんまりなかったんです」
ニセコに移住した鎌田さんは、「地域おこし協力隊※」という制度を使い、3年間はニセコ町の役場で役所仕事や町のイベントに関わったりしながら、グローブの仕事を徐々に進めていったという。
「地域おこし協力隊の任期の半分の時点で、家でグローブ製作をしていて、ある程度形になってきたので、現在の工房を借りたんです」
※総務省管轄の地方移住を促進する全国プログラムで、都心から地方に移住者を送り出して、地域で最大3年間仕事をしながら定住をはかっていくというもの。
「純粋にグローブ屋だけになって、ちょうど1年が経ったところです。最近、道外の人にもオーダーしてもらったり、SNSなどで発信してもらったりするようになってきました。嬉しいことです。でも、それと同じくらい、もっと? 嬉しいのは、グローブ屋1本になってからは、もともと思いっきり滑りたかったという願いがガンガンに叶っていることです(笑)。
僕、ニセコにきてからシーズン中100日くらい滑っているんですが、グローブ屋だけになってからは、毎日朝は8:30から2時間、朝イチのフレッシュパウダーを滑って、そのあと工房でひたすら製作をする。毎日のこの繰り返しが、とても幸せなんです。最初はモイワを中心に滑っていたけれど、おととしからニセコ全域を滑るようになりました。バックカントリーもやるので、ニセコの連山の山系、羊蹄に行ったり、キロロに行ったり。春はチセヌプリなら5月までたっぷり滑れますから。
工房には客人もよく来ます。滑るのが好きな人が遊びに来てくれるので、山行で雪がどうだったとか、あそこいいね、とか、まる1日スキーの話をしてる(笑)。
地元の仲間や、ウチのグローブを使ってくれているお客さんと滑ったりもします。スキー場に行けば自然とどんどん知り合いが増えて、一緒に滑ったり。楽しいですよ~」