「予約が取れない店=いい店ではない」 菊乃井三代目が断言する理由「もう“講釈”はいいから黙っといてくれ、“講釈”を食べに来たわけやないぞ」

京都の老舗料亭「菊乃井」の跡取りとして生まれ、「ほんまにおいしいものって何や?」を追及して70余年の村田吉弘氏。近年、高級化が止まらない料理屋や料亭が“忘れてしまったもの”にあえて苦言を呈する。

『ほんまに「おいしい」って何やろ?』より一部抜粋、再構成してお届けする。

料理屋、料亭は「公共」のもの

うちもそうですけど、料理屋、料亭として電話帳に載っている以上、これは「公共の施設」やと思っています。商売というのは、みんな「公共」です。その「公共」のものが、「普通の人が一生かかっても行けないようなところ」になっているというのは変な話です。

変なものは、いずれ遠からず、なくなります。普通の人に支持されないようなものは、長い歴史のなかで存続できたためしがない。

そういう意味で、いま危惧していることの一つが東京の鮨屋の、1人5万円とか7万円とか言われている事情。

ほっといてくれ、と言われるかもしれませんけど、これでは大衆に支持されてきた「鮨」という文化が日本から消えてなくなるんとちゃうか、と心配してます。

食べに行く方も、値段の高いのが上等やと思っているのかもしれませんね。昔は、文化人は金持ちやったんです。でもいまは、文化人は金持ちやない。

一方で、文化などとはあまり縁のない、お金だけは持っているという人、そしてそのお仲間が、お金を出せば「おいしいもの」が食べられると思ってあちこちへ出かける。そこに「食文化を楽しむ」というニュアンスがあるのかどうか。「料理」やなくて「価格」を食べてるんやないか、それが問題や、というわけです。

私は、そういう「お金さえ出せば」というような向きを、あえて「輩」と言いますが、そういう「輩」を相手に商売をする人達が私らの仕事の分野でも増えました。

そうなると、高い方が上等だという価値観ですから、「値段が高くて、狭い店」、8席とか10席でやるのですぐに満席になる、この先3か月も半年も予約が取れない、というような店が流行る、話題にもなる。そうなると、また予約を取りたい「輩」が増える。

そういう店が「何か月も予約が取れない人気店」とか「評判の店」になる。するとまた、そんなところをスタンプラリーみたいに回るのを自慢する「輩」がいて、来た時に次の予約を取って帰る。

これでは、普通の客はいつまでたっても入れない。そういう商売でいいのか、料理屋は「公共」のものという考え方はあかんのか、ということです。

そういう傾向の影響もあるのか、この頃、京都でも若い子がいきなり独立して、いきなり2万5000円とかの値段で商売しようとする。店の規模は、さっき言ったような8席とか10席ですよ。ちょっと受ければ、すぐに満席になる。それはどうなの、ということです。

私らは、最初は1万5000円ぐらいからやれと言うんです。それでお客さんの支持があったら、もうちょっと上げていくのはいい。けれども、いきなり2万5000円というのは、どうなの、と。そういうのは、京都の暮らし、つまりその街の「公共」とかけ離れているのとちゃうか、と。

結局、そういうのが受けるのは、わざわざ新幹線使うてやって来る東京のお客さんと、インバウンドだけ。でも、よその老舗の連中よりも高い値段でやって、東京の人しか来ていないけれど、それでいい、京都の地元の人は相手にしませんというようなスタンスならば、別に京都で商売しなくてもいいんじゃないか、よそでやったら、という話です。

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料理屋としての良心は

「予約が取れない」ことを自慢する向きもあります。でも、予約が取れない店=いい店、ではない。これだけははっきり言っておきたいと思います。

たとえば、予約のキャンセルがあったとしましょう。すると、そのあとにお客さんがあっても受けない。現実に、キャンセルの分、空いているんですよ。なのに、なぜか、受けない。そういう商売の仕方はどうなのか。それでいいのか。

ほんまにお客さんのことを考える、自分の作った料理をちゃんと皆に公平においしく食べてもらいたいと思う、これが料理屋商売の基本、料理屋としての良心です。そのへんを考えれば、「予約が取れない」ことは自慢することなのか、という話です。

私ら京都の人間は、「東京」という無国籍な巨大都市が日本の料理文化を破壊していくのとちゃうか、と心配しています。そうした時に、うちの先代の言葉を思い出します。

「鮨屋の『あて』のようなものばっかりいくら並べても、それでは『懐石』にはならん。それでは料理屋にはならんねん」

「『懐石』には起承転結がある。一つのルールがあって、そのなかで料理を作るのが『懐石』で、『食べ物』を並べて出して、それがうまければよかろうというのは料理屋やなくて居酒屋や。居酒屋でよければそれでよいけど、お前は、何になりたいねん」

そんなことを先代がよく言うてました。

居酒屋さんも一つのご商売ですから、それはそれで一生懸命やってはる人はいます。

ただ、料理屋と居酒屋では、提供するものが違う。

そういう意味で、このところの東京は、「居酒屋みたいな料理屋」が多過ぎないか。

そんな感じがして仕方がありません。

焼いた牛肉の上に生ウニをのせて、その上にキャビアをのせる。そういう料理を見て「うわー、すごーい」と喜ぶ客がいる。それがいくら高くても「うまい!」とか「おいしい!」言う客がいる。

そういうのに遭遇する時、私らは店に対しては「何を食べさせようと思ってるんや」と言いたくなるんです。それと同時に、目つむって「うーん」とかうなっているお客さんに対しても「おいしい言い過ぎちゃいますか」と突っ込みを入れたくなるんですよ、正直な話。

それから、料理以外の「講釈」が多過ぎる。一皿の料理を出すやいなや、「このお皿は魯山人です」「このお皿一枚でマンション一戸買えます」とかなんとか。なんと下品な物言いやと思いますね。

そんな話に「へー、すごいんだね」とか言って喜ぶお客さんもいるかもしれません。

でも、あなたのところも料理屋ならば、その皿にマッチする盛り付けをして、「わー、きれいやわ」という声を聞きたくはないのか。その後で、「それで、この器は?」と訊かれたらはじめて「実は……」という話をすればいい。

あるいは、魚料理を出す時に、最初から「この魚は瀬戸内の何とかいうところで獲れた……」とか、「山陰は何々港からの直送で」とか、地理の勉強会みたいな、情報てんこ盛りの話をする。そんなことは「この魚は、おいしいね。どこの?」と訊かれてから「どこそこの、何なにです」と簡潔に答えればいいんです。魚屋さんやないんやから。

とにかく「講釈」が多過ぎる。料理より「講釈」が先に立つ。もう「講釈」はいいから黙っといてくれ、「講釈」を食べに来たわけやないぞ、という店がある。これも問題やと思いますね。

文/村田吉弘