「あの頃の義家弘介を思い出せ!」教育方針を180度曲げてしまった“ヤンキー先生”に旧知の作家が望む「再更生」

2003年に放送されたドキュメンタリー番組『ヤンキー母校に帰る』。高校中退した不良が教師となり、更生させてくれた母校に教師として戻ってくる話だ。ドラマ版では竹野内豊が主演し話題となった。そのモデルとなった義家弘介氏はその後、政治家の道へ(現在、落選中)。

 

そんな現在の氏の生き方に違和感を感じ、けじめをつけたいと語る男がいる。長年の取材から同番組を制作し、彼を世に送り出した元北海道放送ディレクターでノンフィクション作家の河野 啓氏だ。

更生し、教師として輝いたヨシイエ

――今回『ヤンキー母校に恥じる』(三五館シンシャ・フォレスト出版)という、書籍を書かれましたが、そもそも義家氏とはどういう関係ですか?

河野 啓(以下同) 1988年、長野市内の県立高校2年生で中退していた“ヨシイエ” (過去の義家氏の呼称)は、北海道余市町にある北星学園余市高校(以下、北星余市)に17歳で編入してきました。

喧嘩に明け暮れていたかつての悪童は、この高校で人の温もりと教育の力を知り、その後教師として母校に帰ってきました。

そのときに、私は北海道放送のディレクターとして、4年間にわたり教師のヨシイエを取材し、計7本の番組で彼を描きました。2003年に全国放送されたドキュメンタリー『ヤンキー母校へ帰る』は大きな反響を呼び、その半年後には同名の連続ドラマがはじまりました。ドラマも好評でした。

ヨシイエから2003年の大晦日に「俺も今年は忘れられないであろう年になったよ。少しは恩返しができただろうか。おかげでこの場所(北星余市)に立ち続ける明確な決意ができました」とメールが来るほどの関係でした。

――高校時代のヨシイエさんはどういう人物でしたか?

出会った頃はとにかく陰気で、話しかけられない鬱のエネルギーをまとっていました。「喧嘩に負けたことがない」といったヤンキーの武勇伝がもてはやされた当時、同じヤンキーでもヨシイエだけは「薄気味悪いやつ」という噂になっていて異質でした。中でもびっくりしたのは、「爪はぎ事件」です。

全国各地から親元を離れてやってきた北星余市の転編入生は、余市町内にいくつかある学生寮に暮らしているのですが、その学生寮でヨシイエは気に食わない3年生に夜襲をかけ、激しい暴力を振ったことがあります。

それを知った番長格の上級生が「先輩にこんなことをして、ただで済むと思ってるのか。落とし前をつけろ」と追い込んだ。するとヨシイエは自らの両足の爪をナイフではがし「これでいいですか」と。

喧嘩が強い生徒はたくさんいましたが、こんなエキセントリックな行動をする生徒は他にいませんでした。

――その後、どのように更生していったのですか?

ヨシイエは、北星余市での生活を通して、明るく、柔らかくなりました。舌打ちも減り、話しかけたら返事するようになりましたね。それは、担任の安達俊子先生をはじめとする北星余市の面々が地道にひたむきに生徒一人ひとりと向き合ったからでした。

安達先生の言葉をきっかけに教師になり、周りにも褒められて熱心に生徒指導しているときのヨシイエはキラキラしていましたよ。

当時、私は取材する側としても「人は成長するんだ。美しい存在なんだな」と感じて自信を持って番組を作っていましたし、彼の言動にも共感していました。

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真逆の教育観と、過去のイメージにすがる義家氏

――いいお話ですね。ではなぜ今回の批判的な内容を執筆することに……?

きっかけは、安倍晋三氏の死でした。安倍氏は義家氏を政治の世界に引き込んだ張本人なので、彼があの銃撃事件をどう捉えているのか気になりました。

実際にフェイスブックを見て、私は愕然としました。義家氏が安倍氏を「第二の恩師」と書いていたからです。

なぜ安倍氏が「恩師」なのか? 政権政党である自民党・安倍一強時代に大きな力によって、大企業の利益ばかりを優先し、それでいて教育へは「この国の明日を担う優秀な人材を作って欲しい」と。教育に対し国家による介入を強化、競争や成果といった経済的価値を優先する政策です。

そういった方針では、落ちこぼれてしまう人間はどうすればいいのか。ヨシイエを更生させた北星余市の教師のような、一人ひとりの主体性を発揮して生徒と向き合う教育観とは真逆です。

もしも「第一の恩師」がこの文章を見たらどう思うでしょうか?

――「第一の恩師」とは?

ヨシイエにとって「第一の恩師」とは、担任だった安達先生です。北星余市で、しつこいほど生徒と向き合い、彼らの人間不信を解き続け、35年の教師生活の後にはひきこもり支援をする青少年自立センターを立ち上げた人です。

高校時代、ヨシイエは「学校とはなにか?」という卒業テストのテーマに対し、「温かさを知った。理不尽な教育がまかり通る中で、教育とは愛であることを教えられた」と書いているほどです。

それなのに義家氏が教育再生会議のメンバーになって以来、生徒と向き合うのとは真逆の教育観を打ち出しています。

教育とは、教師が生徒の人格の成長を促していくことの繰り返しです。そのためには、教師の自主性が守られねばならないのに、政府は教師の評価システムをつくり、国策に従順な教師を作ろうとしています。

例えば、教員免許更新制、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与など、教師の自主性や連携を難しくする教育政策です。生徒の個人の尊厳より国権の方を大事にし、いかに国に役に立つかという国家主義を強めていると、安達先生は危惧していました。

だから、義家氏が教育再生会議の委員に就任するとの報道を聞いたときに、「あなたの大切な息子さんのためにも。これからの日本の教育の在り方を曇らせるようなことだけはしないでほしい」と電話でお願いしたそうです。

しかし、義家氏にその声は届かず、安達先生は「残念ながら、この会議から出てきた答申は、どれひとつとして、私たちが諸手をあげて歓迎できることではありませんでした」とのコメントを、自身が運営する自立支援センターのホームページに残しています。

――義家氏は教師を6年間弱ほど勤めたあと、横浜市教育委員会や第一次安倍内閣の教育再生会議を経て、自民党から衆院選に出馬しました。その流れから考えると、彼の教育観が現場よりも政権寄りになるのも仕方ないような気もします。

確かに、それはしょうがないとしても、文科省で地位を築いていく中で、「ヤンキー先生」のヨシイエとは違う方向性の教育観を発信するならば、『ヤンキー母校に帰る』の美談を利用するのはインチキです。それでは筋が通りません。

実際、彼は今年10月の衆院選でも、20年以上前のドラマに取り上げられたことばかりをアピールしています。あなたにはいまだ「ヤンキー先生」のイメージを使い、美談にすがることが必要なのか? 政治家としてやってきたことはないのか? そう思いました。

私はドキュメンタリーの制作者として、ヨシイエの像を作り上げ、世に出したことに責任を感じています。義家氏に対し、この本を通じて、けじめをつけているつもりです。