大自然のなかで自由な滑走を楽しめる大きな魅力の一方で、さまざまな危険が潜む雪山のバックカントリー。バックカントリーガイドは、そんな雪山で安全を担保しながら、豊かな知識と経験をもとに、得も言われぬ滑走体験を提供してくれる専門家だ。そのプロガイドを生業として選び、一歩一歩ゆっくりと堅実にその世界へと深く踏み込んでいく新進気鋭のガイドたちの「人となり」や「ガイディング」に迫る。
陸上のために続けたスキー
「はじめてスキーを履いた記憶は、覚えてないですね。たぶん小学校入ってすぐくらいかと思います。オリンピアンの佐々木明さんが小さい頃に滑っていたゲレンデ、ニヤマ高原スキー場で、父親が週末だけスキースクールの先生をしていました。でも、父親にスキーを教えてもらったことはなくて、おじいちゃん先生のスクールにぶち込まれてスキーをはじめました。だから、物心つくまでのスキーは、あんまり楽しかったという記憶はないんですよね」
この流れだと「そして、競技スキーへ」と続きそうな生い立ちだが、意外にもアルペンスキーはやったことがない。
「小学校3年生から大学3年生まで、13年間陸上をやっていました。小中は短距離、高校生から800mに打ち込んで、スキーは陸上のためにやっていました(ベストタイムは1分58秒)。冬の陸上練習は、校舎や体育館を走ること。それを終えてから、ひとりで毎日のように板を担いでJRに乗って、スキー場へ通っていました。小学校5年生のときにスキースクールがなくなって、父親が一緒に滑るようになって、そこからスキーが楽しくなりました。あと、いま技術戦に出ている山野井全と一緒に滑ることが多くて、うまいやつと滑るからどんどん楽しくなっていった」
シーズン券を買って通っていたスキーライフは一転、高校時代は一度もスキーを履くことがなかったという。
「陸上や勉強が忙しくて、一回もやりたいとは思わなかったですね」
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新雪がスキーの楽しさを教えてくれた
再びスキーを履いたのは、大学に進学した冬だった。しかも、自主的にではなく、授業の一環として強制的に。
「体育の先生になりたくて、北海道教育大学(旭川校)の保健体育科に進学しました。大学1年生のときにスキーの実習があって、父親のスキーを借りて、授業でスキーをしました。故郷の道南って、雪が降らないんですよ。ずっと硬い氷みたいなゲレンデを滑ってきたんですけど、名寄ピヤシリスキー場で柔らかい雪を滑ったら、楽しくなっちゃって。
その翌年、父親のゲレンデスキーで仲間とカムイスキーリンクスのコース外を滑った。コロコロ転がりながら(笑)。その日からですね、パウダーにハマったのは。一緒に滑る仲間もできて、どんどんBCスキーにハマっていった感じです」
その仲間とは、同い年の千葉泰(ちばゆたか)と木村駿太(きむらしゅんた)である。パウダーにハマったあの時からずっと彼らは、よきパートナーで、刺激をもらうライバルでもある。
※STEEPでは以前に千葉泰と木村駿太の記事を展開 https://steep.jp/interview/47810/
実家から離れたアパートで下宿する学生にとって、BCスキーの道具は高嶺の花だった。
「ヤフオクでフルロッカーのセンター116のフォルクルONEを買いました。でも、ツアービンディングやクライミングシールはとても買えない。中古のMSRのスノーシューを買って、板を背負って登っていましたね。なに不自由なく、これが普通だと思っていましたから、ただ楽しかったですね。体力だけはあるんで(笑)」
800mという中距離は、心肺機能と筋力、持久力をバランスよく高める競技と言われる。中距離をやっていた人は、登山に強い。大学まで本格的に中距離をやっていた佐々木にとって、山は思う存分体力を発散できるフィールドであり、唯一クタクタになれる場所だった。最初に登った雪山は、北海道の最高峰、旭岳だ。
「旭岳ロープウェイに乗るお金もなかったんで、コース脇をスノーシューで登って滑っていましたね。いま思えば、標高差50mくらいで10ターンもできないような斜面だったけど、めちゃくちゃ楽しかった。教育大の宿泊施設が温泉街の中にあって、研修目的を書けば数百円で泊まれる。仲間とそこに泊まって、朝から滑り込みました。ビーコンの存在すら知らない若造のバックパックの中には、フリースとポカリくらい。最初は地形図すら読めなかったので、ここ滑れるんじゃない? とかちょっとずつ行動範囲を広げていく。その作業がおもしろかった」