教員を辞めてガイドになる!
大学3年の春まで、自分は中学校の先生になって、定年の60歳まで子どもたちに体育を教えて生きていくものだと思っていた。だが、5週間に及ぶ現場の教育実習で、進路の方向転換を余儀なくされた。
「教育実習を終えたら、この仕事を60歳まで続けるのは無理だなあと思いました。中学校の時に、好きでもない先生がいたんですけど、その人の言葉が頭にこびりついていて。『社会で働いている大人で、好きなことして働いている人は1割ぐらいしかいない』って、そのときは何とも思わなかったんですけど、それをずっと覚えていて。しかも『その1割のなかで楽しく仕事している人って、さらにそこから2、3割ぐらいしかいないんじゃないか』っていう話をしたんですよ。『ちなみに俺は楽しくないって言いながら教師をしている』って。なんだコイツって、そのとき思った。せっかくだったら好きなことをやっている人生がいいなと思って、BCガイドを志しました」
北海道の国際山岳ガイドである佐々木大輔の『厳冬・利尻 究極のスキー大滑降』のDVDを観て、刺激を受けたのもこの頃である。ガイドになると決めてから大学3年で部活を辞め、アルバイトを掛け持ちしてお金を貯めることになる。
「GAPの店員、ピザの配達、家庭教師などいろんなアルバイトをしました。B Cスキーの道具も高いけど、資格試験もめちゃくちゃ高い。まず雪崩業務従事者レベル1をとって、ファーストエイドの講習を受けました」
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本州・谷川岳で武者修行
悩める大学生はいてもたってもいられず、思い切った行動に出る。大学3年の冬が始まる前に、群馬、新潟を拠点に活動するガイドの峯岸健一さんにコンタクトをとったのだ。
「バックカントリーガイドのなり方なんて誰もわからないし、教えてくれない。だから誰かに会いに行こうと。北海道じゃないところへ行ってみたかった。白馬か谷川がかっこいいなあと思って、ネットでパチパチ検索してたら、上の方に峯岸さんの『KinTouN』が出てきたんです。滑走専門ガイドみたいな、滑り重視の感じにもちょっと惹かれて。
峯岸さんにメールしたら、時間があるんだったら一回会おうって言ってくださって、谷川のガイドツアーに連れて行ってもらいました。行ったことによって意思が固まって、『お金はいらないので、勉強させてください』ってお願いしたら、いいぞって。その翌年、大学4年の2月、卒論発表が終わった次の次の日くらいに谷川へ飛びました。だから、卒業式には出ていないんですよ」
峯岸健一さんは、佐々木がやってきた当時をこう懐かしむ。
「テンションが低くて、淡々としている子だなと思いました(笑)。でも、ガイドになりたいという目的がはっきりしていたので、受け入れてからトレーニングを進めていくのはとてもスムーズでした。スキーはとても上手だし、綺麗に滑る。テンション低いけど、リスクを取って滑りたい斜面へ積極的に入っていく姿勢を見ると、心の中で燃えているんだなと感じました」
こうして22歳の冬、峯岸さんのところにガイド見習いとしてお世話になった。
「その年は雪が少ない年で、谷川か神楽のどちらかでツアーをしていました。3月にアラスカのツアーがあって、それにも連れて行ってもらって、大学のときに貯めたお金がマジでなくなった。口座の通帳を見たら3万円くらいしかなかった(笑)。そして、4月から立山のシーズン。毎週末『KinTouN』ツアーが開催され、その間の平日は雷鳥平にテントを張って、ひとりでひたすら滑っていましたね。
テント泊も初めてで、峯岸さんの寝袋を借りて、モンベルのステラリッジテント2を3週間張りっぱなし。週末だけツアーで雷鳥荘に泊まるんですが、ここでごはんをいっぱい食べて、下山するお客さんの行動食のあまりをいただいたり(笑)。週末上がってくる峯岸さんに食料を買ってきてもらったり。山荘へ行けば、うどんとか牛丼を食べられるんですけど、それすら食べるお金がなかった」
それでも、後先考えず、立山にしがみつき、来る日も来る日も登り、滑り続けた。ガイドになりたいという一心が背中を押したのもあるが、立山の自然がそうさせたのだという。
「感動したんですよ。立山のあの白い山塊に。表側の見えているところを、一本一本丁寧に全部滑りました。裏側はまだ怖くて行けなかったですけど。『JUNRINA』の長井淳さんが、おまえ金がないなら帰れないだろ? って富山県警の山岳警備隊の派出所がある立山センターの仕事を紹介してくれて、6月の中旬くらいまでそこで働きました。仕事内容は、朝昼晩の食事の用意、道標の竹の棒を抜いては刺すなど、いろいろです。午前か午後か、どっちかは必ず滑れて、3食付いて、温かい布団で眠れるから、最高でしたね。その後も立山センターには3シーズンお世話になりました。4月後半から6月中旬まで、2ヵ月弱の立山生活。
その年は、夏までいろって言われたんですけど、僕の性格上同じところに留まるのが無理なので、北海道へ帰りました。その年は、先輩の紹介で、『アルパインガイドノマド』で働くことになりました。北海道の夏山ガイドはテントや食料、燃料など100ℓのザックで何十kgも荷物を背負って歩くんですけど、その歩荷要員です。翌年、立山に上がっているときにガイドの勉強をして、東京で受験して、北海道へ帰った。その年からようやくガイドとして働き始めました」