佐藤栄作(首相官邸HPより)

7年8カ月という長期政権を築いた佐藤栄作は、退陣して2年目の昭和49(1974)年にノーベル平和賞を受賞し、スウェーデンのストックホルムで授賞式が行われた。

佐藤夫妻はその足で当時のソ連(現・ロシア)を訪れ、コスイギン首相と会談するなど“旧婚旅行”を楽しんだ。

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その旅行からわずか半年後、佐藤は東京・築地の料亭『新喜楽』で脳内出血を起こして倒れ、それから16日後、昏睡状態のまま死去した。

命日は、昭和50年6月3日であった。

のちに佐藤派のベテラン議員は、このあたりの逸話を筆者に明かしてくれた。

「ノーベル平和賞受賞の報は深夜2時ごろ、自宅(東京・世田谷区代沢)に電報が届いたそうだ。佐藤は就寝中で、寛子夫人から知らされるとニヤッと笑って何も口にしなかったという。自らやり遂げた『非核三原則』での沖縄返還が認められた格好で、やはりこれでよかったのだとしたニヤッだったのではないか。一方、退陣にあたっては新聞記者を締め出し、テレビで引退会見をして物議を醸したが、寛子夫人には事前に引退のイの字も伝えてなかったとされ、いかにも佐藤らしかった。あとで夫人から聞いたが、『なぜお辞めになるのを私におっしゃらなかったの』と言ったら、『なぜおまえに言わなきゃならんのかッ』とギョロリとにらまれたそうです。ここでも口が堅く面目躍如であった」

ちなみに、佐藤を政治の「師匠」としていた竹下登の自宅は、佐藤が亡くなった頃は同じ代沢内で、目と鼻の距離にあった。

『宰相夫人の昭和史』(上坂冬子/文藝春秋)によると、将来を期す竹下が佐藤の威光を“大事”にしていたと思われる話が出てくる。

佐藤の仮通夜の光景である。

黙って示した90カ条もの『良寛戒語』

来客の往来で取り込んでいた佐藤家の台所に、次々と惣菜などを盛りつけた丼が届けられた。

どれもこれも家庭の味で、忙しく立ち回っていた家人たちはその差し入れで空腹を癒やし、なんとか一息つくことができた。

食べ終わって誰からの差し入れかと話し合っている中、ふと器を裏返すと「竹下」の名入りであった。

寛子夫人と竹下の直子夫人は普段から仲が良く、近い将来、竹下に天下を取らせたい直子夫人の“差しがね”と思われた。

居合わせた人たちは、さもありなんとうなずき合った――。

田中派では御大の田中角栄に疎まれていた竹下だったが、佐藤の死後、その邸宅は竹下に貸し出された。

その後、竹下は佐藤の威光によるものか、その邸宅に住んだことで縁起が通じたか、総理大臣の椅子に座ることになる。

竹下が借り受けて入居したのは、自民党総裁に決まるわずか1週間前。時に、竹下の天下取りにノーを出し続けた田中は、すでに病魔に倒れて政治生命を失っていた。

さて、佐藤が亡くなる1年ほど前のこと、寛子夫人は前回で記した通り、寝室のテレビの上に置いてある1枚の紙切れを発見した。

これを見ると90カ条から成る『良寛戒語』のコピーであった。

良寛とは、1700年代後半から1800年代前半にかけて活躍した僧侶、歌人である。

越後(新潟県)出雲崎の名主、橘屋山本家の長男として生まれたが、俗事に嫌気がさして弟に家督を譲り、18歳で出家。約20年間、放浪の旅を続け、修行を重ねた洒脱な人物であった。

また、日がな子供たちと時間を忘れて遊び、近くの農民たちと酒を酌み交わすなど、心優しい人物としても知られていた。

あるとき、良寛の住む小さな庵に泥棒が入ったが、布団以外に持っていくものがないので、盗みやすいようにあえて寝返りを打ってやったなどの話もある。

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墓誌銘には「拒まず追わず競わず随わず…」

寛子夫人が見たその『良寛戒語』のコピーには、次の5つに丸印が付けてあった。

一、言葉の多さ

一、口のはやさ

一、さしで口

一、能く心得ぬことを教ふる

一、すべて言葉は惜しみ言ふべし

寛子夫人は、のちに佐藤の死を振り返って、筆者にこう語ってくれた。

「入院中の主人の体をつねってみたけど、いびきをかき続けているだけ。それでも、死に至るとはこれっぽっちも思っていなかったのです。その後、主人はいつまでたっても意識不明で、眠ったままでしたが。眠り続ける主人を見ながら、私は主人が意識を回復したらまず何を言おうか、そんなことをしきりに考えていたのを覚えています。結局、16日間も意識不明のまま臨終を迎えたわけですが、この期間は『このへんで死んだら寛子も諦めてくれるだろう』といった栄作の気遣い、精いっぱいの“演技”じゃなかったかとも思っておるのです。倒れてすぐ死んだら、私は間違いなく狂っていたと思います。それにしても、夫婦というものは愛しているとすぐ迎えにくると言いますが、栄作は…。『良寛戒語』については、私は栄作に『あなたが私のために丸印をつけたのか』と質したことは、一度もありませんでした」

その寛子が、佐藤のいる泉下に旅立ったのは、佐藤の死去から12年後の昭和62年4月、佐藤を政治の「師匠」としていた竹下が、悲願をかなえ総理の椅子に座った年であった。

昭和50年6月16日、日本武道館で国民葬が営まれた佐藤の戒名は「作願院釋和栄」であった。

その墓誌銘の末尾は、次の一節で結ばれている。

「銘に曰く。拒まず追わず競わず随わず、縁に従い性に任せ命を信じてなんぞ疑わんや」

重厚なたたずまいの政治手法が売りの佐藤ではあったが、素顔はパチンコ、競馬、芸者をあげての宴会が大好きな“庶民派”であったことは、あまり知られていなかったのだった。

(本文中敬称略/次回は田中角栄元首相)

文/小林吉弥

「週刊実話」12月26日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)
政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。