テレビ朝日映像が製作した映画『ありきたりな言葉じゃなくて』(渡邉 崇監督)が12月20日に公開される。同社が本格的に映画に参入する初の作品であり、共感を生むシナリオの完成度の高さ、心象描写を見事に描いた映像、そして役者陣の名演が見事に調和し、今、注目度が高まっている!

12/20公開! こんなに沁みる映画、他にはない!



〝彼女〟との〝出会い〟をきっかけに、〝彼〟は全ての信頼を失った……。実際の体験を基に創り上げた、〝痛切な青春〟物語は、どのような展開で描かれるのだろうか?

まずは、あらすじを紹介しよう。

32歳の藤田拓也(前原 滉)は中華料理店を営む両親と暮らしながら、テレビの構成作家として働いている。念願のドラマ脚本家への道を探るなか、売れっ子脚本家・伊東京子(内田 慈)の後押しを受け、ついにデビューが決定する。

夢をつかみ、浮かれた気持ちでキャバクラを訪れた拓也は、そこで出会ったりえ(小西桜子)と意気投合。ある晩、りえと遊んで泥酔した拓也が、翌朝目を覚ますと、そこはホテルのベッドの上。記憶がない拓也は、りえの姿が見当たらないことに焦って何度も連絡を取ろうとするが、なぜか繋がらない。

数日後、ようやくりえからメッセージが届き、待ち合わせ場所へと向かう。するとそこには、りえの彼氏だという男・猪山 衛(奥野瑛太)が待っていた。強引にりえを襲ったという疑いをかけられ、高額の示談金を要求された拓也は困惑するが、脚本家デビューを控えてスキャンダルを恐れるあまり、要求を受け入れてしまう。

やがて、事態はテレビ局にも発覚し、拓也は脚本の担当から外されてしまう。京子や家族からの信頼も失い、絶望する拓也の前に、りえが再び姿を現す。果たして、あの夜の真相は? そして、りえが心に隠し持っていた本当の気持ちとは……?


意気投合する拓也とりえ

今回、本作を手がけた渡邉 崇監督にインタビューさせていただく貴重な機会をいただいた。

元々、ドキュメンタリー番組や映画をメインに手掛けてきた渡邉 崇が、初めて挑戦したフィクションものとしての長編映画である。ならば、我々としても、その制作過程で経験された瑞々しい思いを事細かく語っていただき、演出なし、ノーカット・ドキュメンタリー的にみなさまへお届けし、本作の魅力を渡邉監督の魅力的な人物像を深掘りしていこうと思う。


ロケ現場にて。撮影した場面を真剣な眼差しでチェックする渡邉監督

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渡邉監督の思い出=ルーツが自然と表出した二人の〝時間〟が表現された場面に注目!

——渡邉監督が少年時代にハマった作品を教えてください。

中学1年生の時に、最初読書でハマったのは『僕らの7日間戦争』シリーズですね。ここから始まって、映画では、宮沢りえさんが出演された1作目は、僕らの世代的にはちょっと早すぎて。『ぼくらの7日間戦争2』(1991年)を映画館へ見に行ったのを覚えています。同時上映が『幕末純情伝』だったんです。その牧瀬里穂さんが大好きで。5年くらい前に彼女のインタビュー番組を作った際に、目的を全て達成してしまった感になり、モチベーションが一旦なくなってしまったみたいなこともありました(笑)。僕は仙台出身なんですけど、それほど映画館が多いというわけでもなく、少年時代の僕の映画体験は、きっと皆さんと同じで、まあ、なんとなくで、映像がおもしろいなっていうところから始まりました。あとはテレビで野島伸司ものですよね。『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』(1994年TBS系)、後年に、浜崎あゆみさんが出演していたと知った『未成年』(1995年TBS系)、『聖者の行進』(1998年TBS系)とかも観てましたね。

——その頃の記憶がルーツとなって、自分の作品に今つながってきているのかも? と感じることはありますか?

今回は、フィクションものでの初の長編映画なので、ロケハンは細かく行いました。イメージに合う場所を探していると、どこか自分のアンテナ的に懐かしい部分というか、センシティブだったものに引っかかるような、あぁ、この景色いいかもなって感じる瞬間があったんです。

——それはどの場面ですか?

主人公の藤田拓也(前原 滉)の住んでる所って江東区という設定なんです。で、拓也と出会う彼女であるりえ(小西桜子)が、二人で駅に向かう夕暮れの中でのシーンがあるんです。まだ仙台に僕がいた頃って、そんなに家も多くなくて、なんかあの辺の日差し感みたいなものっていうのが、なんとなく自分の琴線に触れるような感覚がありました。


夕暮れの中を歩く、拓也(前原 滉)とりえ(小西桜子)

——そこを詳しく伺ってもいいですか? 物語の中で、いわゆるテレビの制作の現場もドキュメンタリー風に撮られているじゃないですか。この場面の撮り方と、今おっしゃった自分の琴線に触れる場面の映像は、雰囲気が違うなって私は感じたんです。リアルっぽく感じさせるテレビ局の場面では、どちらかというと無機質に表現されていて、平たく撮られている感じがしたんです。一方、その拓也とりえの場面では、奥行きがあって、光も繊細で、イメージとして撮られているなと感じてしまったんです。試写の際、その点が最初に感じたことだったんです。撮り方の差別化って無意識だったのですか? 狙ってのことだったのですか?

拓也とりえのシーンは、割と長回ししているんですよ。というのも、なんか二人でいる時間というものをちゃんと撮りたかったっていうのがあったんです。この撮影に至る前に前原 滉くんと小西桜子さんとはたくさんお話をして、拓也とりえの人となりを創ってきているので、なんかその場で演出するというよりは、その場で二人の時間を過ごしていただいて、その時間が撮れればいいんだと思っていたんです。なので、そういう撮り方をしていると思います。一方でテレビ局の編集室とかの場面というのは割と細かくカットを割っていて。時間というよりは事象を撮っているってことだろうなと僕としては思っていました。だから、そういう観点で述べると、自分の琴線に触れる思い出=10代の頃って、事象というよりは時間を過ごしていたような気がしていて。働き出してからの自分は、時間というよりは物事を仕上げていくことに重きを置いている事象的な行いなのかなと。「なるほど!」って感がありますね。僕も作り手として今振り返ると、まさにそう思いました。

——一連の物語の中でも、説明しなくちゃいけないパートと気持ちを表すパートで、表現が異なっていたということですよね。特段狙っていたわけではなく、自然とご自身のルーツが表出して、ロングで撮った、細かくカット割りして撮ったという表現の違いが出てきたということなんですね。

僕自身も、今この話しをすることで、自分の撮り方の理由づけを再確認できました。

——そういう視点から今作品を観てみるのも、また深みが増してきていいですよね。