日本人初のヘビー級世界王者の夢を担うボクサー・但馬ミツロ。カリスマだったアマ無双時代、五輪断念、ジムが大金を準備して獲得した超新星の素顔

近年、日本ボクシング界では井上尚弥の4団体統一や村田諒太のミドル級世界王者などの偉業が達成されているが、それ以上に「絶対不可能」といわれているのが世界ヘビー級王者の誕生だ。その壁に挑むボクサーがいる。但馬ミツロ。デビュー前から脚光を浴びるアマ5冠、但馬の知られざる素顔に迫った。(前後編の前編)

全財産をかけて契約した重量級の宝

「じゃあ会長は選手とお金、どっちが大切なんですか?」

2021年7月、重量級ホープとしてプロデビュー戦が待たれていた但馬ミツロは、所属する緑ボクシングジムの松尾敏郎会長の目を真っ直ぐにみつめ、こう尋ねた。

会長室で二人、重たい空気が流れた。

松尾会長は、契約内容を踏まえ、試合をしていないミツロにとてもこれまでのように月額報酬は払えないということを、改めて丁寧に伝えた。

結局、話し合いはまとまらなかった。ミツロは寂しそうに部屋を出て行った。

アマチュア5冠の実績を引っさげたミツロが緑ジムからプロ入りしたのは、そこからさかのぼること1年5か月前の2020年2月のこと。

「自分より速くてうまいヘビー級ボクサーはいない」

スパーリング試験で相手を圧倒したミツロが、大勢の記者達の前で豪語した。その様子を少し離れて、松尾会長がまるで我が子を見つめるような目で見守っていた。

「そのときは本気でヘビー級チャンピオンを作るつもりで、この子に残りの人生を捧げようと思ってましたからね」(松尾会長)

緑ジムは当時創立46年、それまでに2人の世界王者を育てた愛知県名古屋市にある名門ジムだ。何百人とボクサーをみてきた松尾会長がミツロの素質に惚れ込み、全財産をかけて彼のために2000万円を準備した。

さらに借金をして、月額報酬30万円とは別に、ジムの近くにあるマンションの家賃10万円もジムが負担することも約束するという、ジム創設以来の好待遇だった。

しかし、プロテストから約1年半と経たないうちに、両者の関係は完全に冷え切ってしまう。コロナ禍の影響もあり試合がなかなか決まらず、2021年6月、やっと決まった日本王者との試合は、直前にミツロの腰痛が原因でキャンセルとなった。

松尾会長は、腰痛で試合ができないミツロのことを「甘え」ととらえた。プロボクサーは試合をしてなんぼ。試合ができないことに本人の焦りを感じなかったことも、苦々しく思っていた。

一方で、長くアスリート経験のあるミツロにとっては、試合を怪我でキャンセルすることは決して異常なことではないという考えがあった。もちろん、試合はしたい。だけど、万全の状態でしたかったのだ。

そのまま両者の溝は埋まらず、喧嘩別れとなる。

2021年10月、ミツロは亀田興毅氏が会長を務める3150ファイトクラブへの移籍が突如発表された。3150ファイトクラブから緑ジムには、移籍金として数百万円が支払われた。

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ぎこちなく非力と評された高校時代

1994年、愛知県碧南市で、日本人の父とブラジル人の母との間にミツロは生まれた。2歳のときに父を亡くして以来、トヨタ自動車の整備工場に勤める母に女手ひとつで育てられた。

小5から中3までテコンドーを習い、夢はK-1選手。蹴り技は自信がついたから、次はパンチを覚えようとボクシング部のある強豪・亨栄高校に進学する。高2の選抜とインターハイでベスト8の実績を残す。

そんなミツロを、国体会場で目をつけたのが当時の中央大学の監督代行・伊藤貞男氏だ。伊藤氏はのちにプロアマで活躍するボクサーを多くスカウトしている。

「国体の会場で高校生が、同じチームの大学生の先輩に向かって右だ、左だと誰よりも大きな声でゲキを飛ばしているのが気になってね。おもしろい子だなと思ってたら、お金がないのか、会場の外にある露店のアイスクリームを物欲しそうに眺めていたんです。声をかけておごってあげたら、以来ミツロは大会のたびに私の姿を探して、挨拶に来るようになりました」

当時の実力はどうだったか?

「その頃は今と違って逆に痩せすぎで、打ち方がぎこちなく非力でしたね。東海ブロック予選で負けることも見てましたから。ただ、技量は光るものがありました。きちんと筋肉をつければ、大学リーグ戦でレギュラーとして戦えると思い、スカウトしました」

伊藤氏は慧眼だった。大学2年次に、バルクアップしたミツロは新設されたライトヘビー級で国体と全日本選手権で優勝する。ミツロの”無双”はここから始まった。

ミツロと同期入部の河口周悟氏(アマチュア元日本ウェルター級8位)は、「ミツロは悪く言うと空気は読まないが、良く言うと周りに流されないタイプ」と話す。

「たとえ先輩相手でも圧倒的な実力と練習量で何も言わせない感じでした。また、チームをまとめるというよりスペシャリストで、主将や副主将というタイプではなかった。ただ、誰よりも練習して結果も出す。だからミツロの言動にはいつも説得力がありましたし、部の雰囲気を引き締める、ある種畏怖の対象というか」(河口氏)

一学年下で、ミツロと学生寮で同室だった岡澤セオン氏(東京五輪、パリ五輪日本代表)はこう話す。

「ミツロ先輩はひと言でいうと“ボス”。べらぼうに強くて、一方で遊びも全力でやる。終電30分前まで練習して、そのあと朝まで後輩達をよく飲みに連れてってくれました。後輩には一円も払わせなかったし、酔い潰れた人がいたら最後まで介抱していました。

今のイメージから誤解されることもあるかもしれませんが、間違いをちゃんと叱ってくれる先輩で、理不尽だったり高圧的だったりしたことは一度もありません。実際は面倒見がよくて愛に溢れた人だったから、みんなからめちゃくちゃ慕われてましたし、今でも僕は感謝しています」(岡澤氏)