レジェンド・矢沢永吉が1972年に結成した伝説のロックバンド・キャロル。メンバーのジョニー大倉が『クリスマス・キャロル』の神聖なイメージにちなんでつけたというバンド名のグループは、いかにして伝説になったのか…。
クリスマスにちなんだバンド名のキャロルが『ルイジアンナ』でデビュー
1972年10月1日。フジテレビで夕方に生放送でオンエアされていた若者向けの情報番組『リブ・ヤング!』で、「ロキシー・ファッション」という企画が取り上げられた。(注1)
4人全員がリーゼントに革ジャンという出で立ちのバンドが、そこで自分たちのオリジナルを1曲だけ歌って演奏した。
そのバンドは「キャロル」という名前だった。
その日、同番組に出演していた内田裕也は、リハーサルを見てすぐに「プロでデビューしないか」というオファーを出した。
家でテレビを見ていたミッキー・カーチスは、まだ番組が終わる前なのに、電話でディレクターを呼び出した。そして「自分のレーベルで出したいから」と伝えて、オンエアが終わった直後に電話でメンバーの矢沢永吉と話を進めた。
サウンドもヴィジュアルも新鮮だったので、本番中にテレビ局に電話してスカウトした。次の日の朝には契約して、翌日の昼にはレコーディングしていた。
(ミッキー・カーチス著「おれと戦争と音楽と」亜紀書房)
『リブ・ヤング!』出演からわずか10日後。キャロルが日本フォノグラムと専属契約を結んだという話が音楽業界に広まった。もちろんプロデューサーはミッキー・カーチスだった。
そして12月25日に、キャロルはシングル盤『ルイジアンナ』でデビューした。
※注1:初めてフジテレビの『リブ・ヤング!』に出演した日付に関しては、1972年10月8日という説もあり。
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キャロルというバンド名はメンバーのジョニー大倉が思いついた
デビューに至るまではバンド結成から半年、テレビで発見されてからだと2カ月もかかっていない。まさに電撃的なプロ・デビューだった。
結成当初から、キャロルはドイツのハンブルグで武者修行をしていた、革ジャン時代のビートルズを目指していた。バンド名はメンバーの一人、ジョニー大倉が思いついたものだ。
「オレはさぁ、ゴールデン・バットがイケてると思うんだけど」
永ちゃんが言った。
「ルーシーっていうのはどうかな?」
ウッちゃんが言った。
「ジョニーはさぁ、何がいいと思う?」
永ちゃんがぼくに訊いた。
「キャロルっていう名前がいいよ」ぼくは答えた。
ぼくの頭の中には『クリスマス・キャロル』の神聖なイメージがあった。なぜだかわからない。でも、このバンド名以外にピッタリくるものはない、と直感したのだ。
(ジョニー大倉著「キャロル夜明け前」主婦と生活社)
それまでもジョニー大倉は「アンナ」と「ジュリア」という、女の子の名前のバンドで活動してきた。「ヤマト」や「ゴールデン・バット」ではなく、西洋的で優しい響きの「キャロル」になったのは、奇しくも矢沢永吉とジョニー大倉という個性の対比をあらわしていた。
キャロルは二人の異なる資質と才能が化学反応を起こして、音楽シーンに大きな波紋を投げかけることになる。
ノンフィクション作家の田家秀樹が初めてキャロルを見たのは1972年12月16日。東京の赤坂にあったディスコ『MUGEN』で開かれたクリスマス・パーティーだった。
デビューを目前にした業界向けのコンベンションだったが、田家は文化放送の深夜番組『セイ! ヤング』の機関紙『ザ・ヴィレッジ』に、その時の感想をこう書いていた。
演奏は粗削りだが実に小気味よい。ともかくこれが日本人かと思うほどバタ臭くて美しい。そして甘美なまでの若さ。
日本の本物のロックンローラーたちの誕生をつげる叫びかもしれない。
キャロルが登場したのとほぼ同時期に、日本の音楽シーンを革新的に変えていったサディスティック・ミカ・バンドのリーダーだった加藤和彦と、ギタリストの高中正義も、その日なぜか同じ場所に居合わせた。
高中がそれから40年以上の歳月が過ぎて、J-WAVEの『FM Colorful Style 』に出演(2014年9月)した時に、こんなエピソードを披露している。
矢沢永吉さんとはね、昔から接点があって、キャロルがデビューした時に赤坂のMUGENってところで、大晦日あたりにお披露目のパーティーがあったんです。加藤和彦さんとシャンパン飲みながら、キャロルってカッコ良いねって見てた。そのあと何年か経って、サディスティック・ミカ・バンドとキャロルでツアーをしたことがあるの。