『ファンキー・モンキー・ベイビー』のから快進撃が始まった
プロデューサーだったミッキー・カーチスのアイデアで、キャロルはデビュー・シングル『ルイジアンナ』から毎月1枚、連続してシングルをリリースする異例の作戦で、1973年6月までに7枚のシングルを発売していく。
毎月1枚必ず新曲をリリースするというのは、コンビを組んだばかりの新人ソングライターだったジョニー大倉と矢沢永吉にとって、きわめて苛酷なしばりとなった。
デビューシングルの『ルイジアンナ』が20万枚。2枚目の『ヘイ・タクシー』が10万枚、それからは出すたびに少しずつジリ貧になっていったのだ。
しかし、二人はデビューから半年後に『ファンキー・モンキー・ベイビー』という、日本ロック史に残る傑作をものにして、その名を刻むのである。
30万枚を売り上げた『ファンキー・モンキー・ベイビー』のヒットで、キャロルはいよいよ全国的な人気バンドとなり、そこから快進撃が始まった。
キャロルとサディスティック・ミカ・バンドが関東、東北、関西、九州など13カ所のツアーを行ったのは1974年のこと。
その年は7月7日の『日比谷サード・ロックン・ロール・ストリーク』(日比谷野外音楽堂)と、伝説となった8月10日のイベント『ワン・ステップ・フェスティバル』(郡山市開成山公園)で、両者が競演を果たしている。
しかし、人気絶頂にあったにも関わらず、キャロルは1974年12月30日に解散を発表した。
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矢沢の「最後までノッていけよ!」という声とともに最後のコンサートの幕が開いた
吉田拓郎を筆頭にフォークが市民権を持って若者の人気を集めて、ロックがすっかり息を潜めていた時代。革ジャンにリーゼント姿のキャロルの登場は異質であり、鮮烈だった。
ところが『リブ・ヤング!』出演からわずか2年で、バンドは解散の岐路に立たされることとなる。
メンバーのモチベーションや考え方、やりたいことなどがバラバラになってきている。そう感じた矢沢はメンバーに問いかけた。
「解散するか、もういちど、フンドシしめてやるか、どっちかしかないと思うんだ。しばらく、ひとりひとりが考えてみようぜ」
後日、他の3人はそれぞれ「解散したい」という答えを出した。これが決定打となって、キャロルは解散発表に至ったのである。
1975年3月16日から始まった『グッドバイ・キャロル』全国ツアーは、解散を惜しむファンが駆けつけてどこも超満員となった。
それまで応援してきてくれたファンの気持ちに応えるために、メンバーは全力を尽くしたが、そう簡単に納得してはもらえなかった。アンコールが止むことはなく、ステージに駆け上がる観客も現れ、終演後はファンに追いかけられるという日々が続いた。
そして4月13日、ツアーは最終日を迎えた。
前日には神田共立講堂でかぐや姫の解散コンサートがあり、涙に包まれたセンチメンタルな幕引きとなった。だが、キャロルのほうはよくも悪くも、まったく対照的なものとなる。
雨の降り注ぐ日比谷公会堂には定員をはるかに超えた、約7000人ものファンが詰めかけていた。
キャロルが登場すると、ステージに観客が押し寄せて両者の間には最低限の距離しかないという状況の中、「最後までノッていけよ!」という矢沢の声とともに最後のコンサートの幕が開いた。
メンバーは雨に濡れながら渾身のパフォーマンスを披露し、会場は異様な熱気に包まれていった。
事件が起きたのは、最後の曲『ラスト・チャンス』が終わった直後だ。突如爆竹の音が無数に鳴り響いたかと思うと、ステージが燃え始めたのだ。
ファンは演出の一部だと思ったようだが、これは完全に想定外のトラブルだった。
本来ならば爆竹による演出ともにセットが倒れるはずだったのだが、予定通りにセットが倒れなかったために、爆竹の熱で燃えてしまった。
こうしてステージが火に包まれるという衝撃的な光景とともに、キャロルの歴史は幕を閉じたのだった。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
*参考文献
『暴力青春 キャロル-最後の言葉』キャロル著(KKベストセラーズ)