「活字の誕生は革命だった」京極夏彦×鳥海 修(書体設計士)『書楼弔堂 霜夜』刊行記念対談

横組みに適した明朝体の可能性

鳥海 明治二年(一八六九)に中国から明朝体活字が入ってきて、本木昌造たちが宣教師の技術者に教わって活字を作り始めました。日本の中で和様と呼ばれる文字を書く人がいて、それを参考にしてかなの活字を作ったんですね。ただ和様はだんだん使われなくなって、明朝体の漢字に合うかなが試行錯誤の果てに作られます。明治三十年ぐらいにおおよそ今の形に似たスタイルが出来上がった。三十年かかったんです。それまでかなというのは連綿体で書いていたものを、一個ずつぶった切ることで活字化が可能になった。漢字からかなはできたわけじゃないですか。草書からどんどん省略していったものがひらがなになり、つながった書き方になっていった。それを急に四角い枠の中に入れなければならなくなって、当時の人は相当苦労したと思いますよ。
京極 というのは、読めりゃいいだろうっていう作り方では誰も納得しなかったということですよね。読みやすいだけじゃだめで、美しくもあるべきだという意見があったわけでしょう。その結果が現在のフォントでしょう。美しさは読みやすさを阻害するものではないし、読みやすい美しさというのはある。だからこれからもそうあるべきだとは思う。今後も、メディアはどんどん変わっていくでしょう。読まれ方も変わっていく。漫画なんて現に、縦スクロール漫画という従来とは描き方から違うものが研鑽されている。いつまでもつのかは不明ですが。文章も電子の世界では別の読まれ方がされるようになっていく可能性がありますから、それに合わせた文字も開発の必要があるでしょうね。
鳥海 紙の本の場合、日本語はほとんど縦組みで、電子もそれが基本ですが、将来は横組みも当たり前になるかもしれない。京極さん自身は、横組みで読まれる小説は、書いているんですか。
京極 書いてないですね。横でも縦でもOKですという技法を僕はまだ開発できてないんです。僕が単行本と文庫で文章を調整するのは、字組みが違うからです。単行本をそのまま文庫にすると読み味が変わってしまう。近付けるためには文章を変えなければならない。もし縦組みでも横組みでも可という小説を作るとしたら、相当工夫しないと。もちろんデータを横組みに流し込んでも内容は変わらないですよ。情報のやりとりだけならそれでいいんですけど、読書はそういうものじゃないですからね。内容じゃない。内容は二の次ですよ。読むという行為は能動的なものだから、読み手がリロードしないとなんにも動かない。書き手にはそれをさせるための努力が必要でしょう。そうすると、まず目に入ってくるのは版面だし、次に目に入ってくるのが文字です。版面と文字の組み合わせがあって初めて読んでもらえるわけだから。駄目な文字じゃ駄目なんです(笑)。
鳥海 黒田夏子さんが『abさんご』(文藝春秋)という全部横組みの作品で芥川賞を獲られたとき、私は読んで、横用の明朝体が必要になると思って自分で作ったんです。
京極 仕事が早いです(笑)。横組みだと明朝体よりゴシック体のほうが違和感なく読める印象ですが。
鳥海 明朝体のかなには太い部分と細い部分があります。そのストロークは縦につながるためのものなんです、常に。ひらがなはもともと縦につながっていく文字だから、それを横に組むと流れを邪魔する。ゴシックならそれはないから、横に組んでも違和感がそんなにないのかなと思います。それを踏まえて横用の明朝体をそのとき作ったんです。
京極 それはすごいですね。映画やドラマのタイトルならいいですが、筆文字横書きの本文は難しいですよ。もともと日本語の文字は縦書き用にできてますからね。でもワードプロセッサーも最初は横書きしかなかったんですよね。日本語が他言語のようにタイプライター化できないのは非常によろしくないという問題提起は昔から幾度もされていて、全てカタカナにしろとか、ローマ字表記にしろみたいな運動までありました。でもそれ、本当は情報処理の問題のほうが大きいんですけどね。ワープロやパソコンというのは脳の外付けハードディスクみたいなもので。最終的に出力するまでは推敲も書き直しもできる。一方、筆書きって最終出力なんですね。にもかかわらず、筆で文章を書いていた人たちは基本的に内容よりも字の上手い下手のほうが大事だったりしたようで。中身が伴わなくても綺麗に書けるほうが尊ばれるのは本末転倒。国民の教養アップの足かせになるだけだから、万人が巧拙を気にせず文章が書けるタイプライターが必要だ、という理屈だったようですが。そうしてみると、みんなの悪筆を鳥海さんが直してくれたようなもので(笑)。
鳥海 恐縮します。江戸とか明治とかに筆を始終使っていた人たちの手の力っていうのはすごいですよ。明朝体のかなは筆で書いたみたいな感じに作るわけですけど、肝腎の筆使いがよくわからないということもあるんです。昔の秀英体のような明朝体は、今かっこよく作れない。
京極 秀英体のような古い明朝体には、筆書きだとこんなことはできないだろうという、挑戦をしているような印象がありますよね。筆書きは、同じ形の文字は決して二度書けないですよ。三文字「あ」を書いたとして、全部違う形になる。でも活字なら全部同じ形です。そこが違うんです。活字は同じ形が連続していても綺麗に見えるべきで、筆書きの場合はいかに文意に沿った違う文字を書くか、なんですね。そういうはっきりした違いがある。だから筆文字と活字は違った進化を遂げてきた。それがどこまで発展するか、この先が楽しみですね。
鳥海 プレッシャーですけど、発展させなきゃいけないでしょうね。私はもう亡くなったある先生から「鳥海君、七十にならなきゃ、ちゃんとした書体は作れないよ」と言われたことがあるんです。今六十九で、もう時間がないので、縦組み用の明朝体を新しく作りたいと思っています。これ一つあればどんな作品でも組める、という明朝体です。作るのも時間がかかるから。これが遺書みたいなものになるかもしれません。
京極 いやいや。これからもいくつもいくつも作ってください。今おっしゃられたことは『霜夜』の視点人物が進む道そのものです。文章を構成するためだけに存在してそれ自体は何も主張しない、しかしその同じ一文字がいろいろな意味を持ててしまうというミラクルな存在が、フォントですよ。それは『霜夜』の時代の活字と同じですからね。仕組みは大きく変わりましたが、同じことを鳥海さんの口からお聞きできるとは、頼もしい限りですよ。
鳥海 本が売れなくなっていると言われる世の中で、まさに「書楼弔堂」じゃないけど、この本は大事、というものに使ってもらいたい。そういう文字を作りたいです。
京極 すてきなお言葉ですね。僕の作品もぜひ、その文字で組んでもらいたいです。

「小説すばる」2025年1月号転載