今年の開高健ノンフィクション賞を受賞した『対馬の海に沈む』は、1人の男性の溺死から始まるミステリアスなノンフィクションだ。男性の名は西山といい、JA(農協)対馬の共済事業で日本一の実績を上げていた。しかし、その影には巨額の横領があった……。本作で第22回 開高賞を受賞した、窪田新之助氏が取材でたどり着いた深い闇とは。
「西山ぐらい興味深い犯罪者はいない」
──窪田さんはこの受賞作以前にもJAを題材にした『農協の闇』(講談社現代新書)という著書がありますね。
窪田新之助(以下同) 『農協の闇』ではJAグループが抱える複数の問題について取り上げていて、とくに現場に課せられた厳しい営業ノルマの話を主に書いていました。
農業に関する経済事業よりも金融事業が中心になっているJAの現状について書きたかったんです。
──窪田さんはこれまで農業の未来や業界について書かれてきましたが、『対馬の海に沈む』のように1つの事件に絞った長編ルポは初めてですね。
『農協の闇』で書いたのは、個人というよりも組織の構造の問題を追及することがテーマでした。しかし今回の『対馬の海に沈む』で書きたかったのは、その構造に苦しむ人間個人なんです。
本作で書いた事件のことを知ったときも、当初は厳しいノルマの問題が関わっているのだろうなとは思いました。しかし取材を始めてから驚かされることばかりでした。
まず対馬に渡る前にこの事件に詳しい、とある方にお会いしてお話をうかがったんですが、その方が「西山ぐらい興味深い犯罪者はいない」と言うんですね。
聞いてみると、フィギュアのものすごいコレクターだったり、“西山軍団”とあだ名されるグループを率いるほどのカリスマ性があったりと、いろいろなエピソードが出てくる。その時点でまず興味を引かれました。
さらに長崎地裁でJA 対馬とJA 共済連が西山の遺族を訴えた裁判記録を読むと謎だらけなんです。
共済金の未払いが発覚すると、西山が数十人にも及ぶ顧客に個人で支払いをして事態をもみ消そうとした跡がある一方、その後に亡くなると対馬でも珍しいほどの規模の葬儀が執り行われ、JA対馬からは100万円近い香典が出ている。
しかも、その後に西山が顧客から預かった通帳を使った「借用口座」や、顧客に無断でつくった「借名口座」を使って巨額の共済金を不正流用していたことが発覚し、西山とその家族にも異常なほど多数の保険契約が結ばれていたことがわかったんです。
本当にこんなことが西山一人でできたのか、なぜ周囲の誰も気づかなかったのかと疑問に思い、どんどん引き込まれていきました。
──『対馬の海に沈む』のおもしろさはまさに「人間」ですね。亡くなった西山を含めて、出てくる人、出てくる人がそれぞれ一癖も二癖もある。よくぞここまでしゃべってくれたな、という証言も出てきます。
授賞式の二次会で、選考委員の森達也さんに「なんでみんなこんなにしゃべってくれるの?」って聞かれたんですよ。
今振り返ってみると、こういう言い方はちょっと僭越かもしれないですが、自分としては取材で出会った人たちと、ネタ元としてではなく人間として付き合いたいとずっと思ってきたんです。
もしかすると、取材した方々に僕のそういう考えをわかっていただいて、信頼してくださったところがあったのかもしれません。
──読み進めていくと、事件の中心にいる西山のイメージがだんだん変わってきます。JAグループで全国表彰されるようなトップセールスを上げながら、亡くなった後に22億円もの横領が発覚した。『対馬の海に沈む』では事件の真相を追う一方で、西山の人物像にも迫っていきます。それも人間の多面性を垣間見るようで興味深い。
書き始めたときは、まだそれほど西山の輪郭ははっきりしてなかったと思います。不正をし続けてきたという悪い側面ばかりが目についていました。
ですが、書くことと並行して、最終確認のような取材をしていくうちに、いやいやこの人物は奥が深いなと思うようになりました。単純に「悪いやつ」だけでは片付けられない。母親思いの一面があったり、仲間思いだったりもするんですね。
それで彼のことを、田舎のヤンキーと評したんですけど、そこに込めた思いは、 少なくとも周りの人間によくしてあげたいという面があったということなんです。そのことに気づいたときに、これは哀しい話だなと思いましたね。
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戦後の日本がつくってきた構造の結果
──窪田さんは大学を卒業してからJAグループの機関紙「日本農業新聞」の記者をされていたそうですね。就職されるときに農業に関心があったのですか。
まず新聞記者になりたいというのが1つ。それと、大学時代に民俗学を専攻していたことが大きいですね。民俗学は常民の歴史や文化を研究する学問です。
常民とは生活文化を伝承する人たちのことで、かつては主に農民を指しました。そこで、今の農民はなにをしているんだろう、という興味から日本農業新聞に入ったんです。
──農業ジャーナリストとして取材していると、農業が抱える問題にぶつかると思いますが、『対馬の海に沈む』は窪田さんにとってどんな位置付けになるんでしょうか。
実は以前は農業ジャーナリストと名乗っていたんですが、この作品を書いたことをきっかけに、肩書きをノンフィクション作家に改めました。
というのは、もともと自分はジャーナリストだとあまり思っていなくて、取材をするために便宜的にそう名乗っていたんです。
この作品を書いたことによって、もう少し幅広く、農業以外のことも書きたいと思っています。それも人間に焦点を当てて書きたい。ノンフィクション作家と自分で言ってしまうことで、やらざるを得ないように自分を追い込もうと。
──たしかに『対馬の海に沈む』はJAの話ではありますが、日本のムラ社会についての話でもあって、多くの読者が思い当たることがあると思います。本書では取材した方たちのほとんどが実名で登場しますね。実名で書かれた理由はありますか。
元共同通信記者の澤康臣さんの『事実はどこにあるのか』(幻冬舎新書)に、実名報道は歴史に記録を残すことだと書いてあったんです。その考え方に触発されて、実名で書くように心がけています。
──窪田さんは誰かを悪者にするのではなく、事実としてこうである、発言の背景にはこういう文化、事情があると書かれています。普通の人の中にある光と影の両面を見ている。そこが『対馬の海に沈む』の「人間」のおもしろさだと思います。
民俗学者の柳田國男が、人生で「絶対」という言葉は2回か3回しか使ってはいけない、と言ってるんですよね。 つまり、「絶対」的な悪人はいない。この人がなぜこんなことをしてしまったのかに思いを致さなかったら、ノンフィクションの書き手として失格なんじゃないかと自分を戒めながら書いています。
──ノンフィクション作家として新たな出発をしたわけですが、次作の構想はありますか。
『対馬の海に沈む』で書いた事件は、戦後の日本がつくってきた構造の結果でもあると思います。その仕組み、システム的なことはJAだけではなく、ほかでも温存されていると思います。たとえば『対馬の海に沈む』で書かなかったのは政治です。
そのほかにも書いてみたい題材はいくつかあります。次は農業以外の題材で、人間を中心に書いてみたいですね。
取材・文/タカザワケンジ 写真/幸田 森