1990年から2000年代にかけて絶大な人気を誇っていた格闘技イベントK-1。当時は年末の風物詩として多くのファンが湧いていたイベントで、ファイター、競技統括プロデューサーを務めた格闘家の角田信朗氏。現在、63歳になった彼に当時のこと、現在の格闘技イベントについて聞いてみた。(前後編の後編)
K-1の精神を体現したアンディ・フグとピーター・アーツ
――角田さんといえば、選手、審判、競技統括プロデューサーとして長年K-1に携わってきたことでもおなじみです。
角田信朗(以下、同) K-1という大きなムーブメントがあったからこそ、今の自分があります。現在もこうしてお仕事をいただけているのも、K-1という看板があったおかげですね。
K-1って1〜2年先のブームではなくて、格闘技界の50〜100年先のことを考えていました。
「サッカーのワールドカップのような大会に育てる」という目標で取り組んでいたのですが、残念ながら1993年のスタートから20周年には届かず、19年で一旦消滅してしまいました。
――K-1以降、PRIDEやRIZIN、BreakingDownなど、さまざまな格闘技イベントが誕生。K-1も体制を変えながら今も続いていますが、どう思われていますか?
今、現在の格闘技シーンを見ていると、背中に美術品を背負った兄ちゃん達が、記者会見で乱闘する。なかには違法薬物に手を染める輩もいますよね。
彼らのやっていることを全否定はしないけど、ああいうパフォーマンスを僕らが育ててきた「格闘技」という聖域と同じ括りで語ってほしくないな、というのが本音ではあります。
僕たちが目指し、ライバルだと思っているのはプロ野球やJリーグ。「メジャースポーツ」です。
そのメジャースポーツの絶対条件は競技人口だと思っています。競技人口につながらないものはメジャースポーツにはなり得ない。
では、競技人口につながるのってどんなスポーツか?と云ったら、「親が子供にやらせたいと思えるかどうか」それが絶対条件。
――確かに、憧れる選手がいれば自然と競技人口やファンも増えていくものです。
スポーツと暴力の紙一重の格闘技の世界に、「礼に始まり礼に終わる」という武道の精神を取り入れたのはK-1が最初だと思ってます。
それを体現したのがアンディ・フグやピーター・アーツでした。
どれだけ激しい戦いでも、終わればお互いに称え合い、礼をして終える……。
僕たちはこの精神を広めようとしてきたので、そこだけは引き継がれていってほしいですね。
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興行としてのK-1のネックは……
――鍛えることやパフォーマンスの前に、必要と思うことありましたか?
K-1で考えると、テレビの生中継があって初めて成立する世界だったので、選手には「視聴率を意識してほしい」と伝えていたこともありますよ。
激しい戦いがなければ、視聴率も伸びず、スポンサーも離れてしまいますからね。
特に外国人選手には「ビジネスクラスの飛行機、豪華なホテル、ファンの声援は視聴率のおかげだ」と危機感を煽りましたが、なかなか選手たちには伝わらなかったこともありました。
――それでも、外国人選手たちがK-1を盛り上げたのは間違いありません。特にピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルド、アンディ・フグといった「K-1四天王」の活躍は印象的です。
アンディは「危機感を持て」と言わなくても、すべてを理解してくれていました。
彼が生きていれば、K-1はまた違った形で続いていたと、今でも思うことがあります。しかし、彼は天に昇りました。
誰も想像していなかった「鉄人」の死。このときは運命を呪いました。
――それでも、90年代後半から2000年代前半にかけて、K-1は一大旋風を巻き起こします。2003〜2010年までは大晦日の風物詩にもなりました。
ブームというより、格闘技という文化が成立しましたね。
その後、運営会社のケイ・ワンをめぐる脱税事件など、K-1には暗い時期もありましたが、そんな流れを変えたのはボブ・サップでしたし。
彼の活躍は一見追い風となりましたが、その一方でK-1の持つ格闘技のクオリティは下がりましたよね。
選手の成長よりも、ファンの目が肥えるスピードが早い。
TVの視聴率狙いのボブ・サップを巻き込んだ仕掛けは、純粋なファンの反感を買いましたね。