田中角栄(首相官邸HPより)

「おっ、ズラかったか」

田中角栄は政策・広報担当秘書の早坂茂三(のちに政治評論家)の個室を訪ね、ドアを開けて早坂が不在であることを見届けると、問わず語りのようにそう声を発してドアを閉めた。

時に昭和50年代半ば、田中はロッキード事件で逮捕、釈放されたが、いまだ「闇将軍」と呼ばれて絶対権力者の椅子は手放すことがなく、最強といわれた弁護団をそろえてロッキード裁判に立ち向かっていた。そんな某日の出来事である。

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当時の田中事務所は、東京・平河町の『イトーピア平河町ビル』内にあったが、田中個人の執務室に加えて「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子ら数名の秘書室、そして早坂や弁護団の個室があり、それぞれがドア一つでつながっていた。

並の政治家にはとてもかなわぬ広大なスペースを貸し切っていたのである。

さて、田中がドアを開けたとき、筆者は早坂への取材でちょうどその個室にいた。

早坂が急きょ近くの歯科へ虫歯の治療に行ったため、彼の戻りを待っていたさなかであった。

それまで筆者は、田中の政治的腕力と人間としての面白さに惹かれ、あらゆる関係者からその「横顔」を取材し、東京や地元・新潟などで行った演説、スピーチの類いも100回を優に超えて聴き入っていた。

ただし、田中本人へのインタビューをしてしまうと、情が入ってなかなか「負」の部分に言及できなくなることから、直接の取材はあえて避けていた。

その田中がひょっこり顔を見せたのである。

一瞬、「いつも勝手なことを書かせていただいているコバヤシです」と、自己紹介でもしようと思ったが、冒頭の「おっ、ズラかったか」の第一声で機先を制せられた格好となり、声が出なかったことを覚えている。

「ズラかる」とは逃げる、消えるといった意味合いで、筆者も子供の頃、遊び仲間と「ズラかろう」などと言い合っていた記憶があり、決して上品な言葉とは言えない。

だが、田中の口からふっとその言葉が出たとき、決して飾らず“地”のままで突っ走ってきた政治家であることが感じられ、むしろ微笑ましく思ったものである。

ゴルフ嫌いから病みつきに

結局、いつか正式に取材を申し込もうとしているうちに、田中はそれから数年後の昭和60(1985)年2月27日の夕方、東京・目白台の私邸で倒れた。

重度の脳梗塞を発症し、政治生命を失ったあと、闘病8年を経て平成5(1993)年12月16日に75歳で死去した。

筆者は、田中をひたすら“凝視”しながら、半世紀余にわたり永田町を取材、出版、執筆などをしてきたが、思い起こせば、まだまだ書き残してきた「とっておきの話」がある。

そのいくつかを3回に分けて披露してみたい。

以下は、言うなら新たな秘話集である。

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ゴルフ好きで知られた田中だが、当初は佐藤栄作元首相に勧められても、「あんなもんワシは絶対にやらん」と言い張っていた。

ところが「黒い霧事件」の責任を取り、48歳で自民党の幹事長を辞任した際、いささかの時間ができたことで一度コースに出てみた。

すると、これで病みつきになり、「まぁ世の中でゴルフくらい面白いもんはない」とまで言い切っていた。

首相退陣後は毎夏の1カ月を軽井沢の別荘で過ごし、まさに“ゴルキチ”三昧で、どんな政財官の大物であっても「手が放せん。ワシに会いたければこっちにやって来い」であった。

さて、これは首相在任中のハプニングだが、折から明治神宮を参拝した帰途の車中で、突然、田中はモーニングを脱いで裸になってしまった。

これを後続のパトカーに乗った警護の警察官が目撃し、すわっ事件か、何事が起こったのかと、一瞬、緊張が走ったのは当然であった。

じつは、田中は狭い車の中で、これから向かうゴルフ場での時間を少しでも多く取ろうと、早々とゴルフシャツに着替えていたのである。

なんともせっかちな、冒頭の「ズラかったか」に匹敵する“地”を出した田中だったのだ。

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古賀政男の『影を慕いて』を熱唱

田中と料亭は切っても切れない関係だったが、これは東京・港区六本木のバーを“はしご”したという珍しい逸話である。

首相退陣から5年余が過ぎ、田中は権力維持のため田中派を再構築しようと画策していた。

そうして「木曜クラブ」を旗揚げする3日前、昭和55(1980)年10月20日のことである。

この日、旧水田派で無所属だった原田憲元郵政大臣が、田中派への“入会申し込み”を表明し、ご機嫌の田中はまず赤坂の料亭「田川」で会談、いわば田中派入りの盃を交わした。

もっとも原田は、この席に1人で来るのは気後れしたか、気の合う時の櫻内義雄幹事長(のちに衆院議長)を同道してきた。

原田、櫻内の両人は共に“ヅカ(宝塚)ファン”で鳴り、ヅカ・ガールの後援会「宝友会」の会長、副会長としてのよしみもあった。

料亭を出た3人は六本木に場所を移し、ネオンの下で肩を組みつつ、櫻内なじみのバーなどを“はしご”して歩いたのである。

とあるバーでは、3人が次々とマイクを取った。

原田、櫻内の両人が「〽スミレの花咲くころォー」などと声を張り上げると、次に田中もマイクを取って神妙な顔で歌い始めた。

古賀政男の名曲『影を慕いて』であった。

この場面を目撃していた社会部記者が、のちにこう述懐していた。

「角さん、『過ぎたまぼろしのわが政権、しかし、これからも“角影”を発揮、風雨に負けずガンバル』との思いに浸っていたように見えた」

田中がこうした六本木のバーを“徘徊”するなどは極めて異例で、沈没危機にあった田中派への援軍が、よほどうれしかったとみられる光景だったのである。

(本文中敬称略/この項つづく)

文/小林吉弥

「週刊実話」1月2日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)
政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。