「上手に滑りたい人」を熱烈プッシュ!バックカントリーガイド 佐藤正昭-拓比屋 [TABIYA] 

大自然のなかで自由な滑走を楽しめる大きな魅力の一方で、さまざまな危険が潜む雪山のバックカントリー。バックカントリーガイドは、そんな雪山で安全を担保しながら、豊かな知識と経験をもとに、得も言われぬ滑走体験を提供してくれる専門家だ。
そのプロガイドを職業として選び、一歩一歩ゆっくりと堅実にその世界へと深く踏み込んでいく新進気鋭のガイドたちの「人となり」や「ガイディング」に迫る。

心配になるほど商売っ気のないガイド・そのルーツ

Photo:Wataru Sugimura

「極力少人数で、静かなエリアへお連れします。バックカントリー経験者でもこちらの利用が初めての方は、半日の「初めましてツアー」に参加していただいて、技量を見させてもらってから、後日こちらが提案するツアーに参加してもらう流れになります」

快楽とアドレナリンを求めるだけの人にはおすすめしない。腰を据えて、スキーと肉体と向き合い、生涯スポーツとしてスキーを我が人生に迎えたい人にもってこいのガイドである。一見面倒くさそうに聞こえる仕組みだが、双方にとって安全、かつ確実にステップアップできる親切丁寧なカリキュラムと言える。極力少人数のうえ、半日ツアーばかり続いたら商売にならないのでは? という心配を笑って受け流す。

「いいんです。スキーを楽しんで、食べて、生きていければ(笑)」

佐藤正昭は、1976年長野県上田市の兼業農家に生まれた。現在は20歳のときに移住した白馬村に拠点を構えているが、田植えや稲刈りなどの繁忙期は里帰りして、両親の農作業を手伝っている。

「自分を育ててくれたお米なので、これからも絶やさずに米づくりに携わりたいですね。小さい頃は、上田も雪がよく降って、家の裏山でよくスキーをして遊びました。

いわゆるプラスチックの長靴スキーですね。小学校へ上がると、湯の丸スキー場のリフト係をしていた叔父さんにくっついて、ゲレンデデビュー。親父もスキーをしていたので、菅平へ滑りに連れて行ってもらっていました」

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技術戦をめざして基礎スキーに傾倒

スキーを続けたくて、スキー部のある上田千曲高校へ進学する。ホームゲレンデは、スポーツ合宿の聖地であり、スキーの歴史が深い菅平高原。晴天率が高く、硬くて、狭くて、急な、上級者コースで来る日も来る日も滑って、腕を磨いた。他校との合同スキー合宿では、上田城のお堀を馬跳びさせられて「退部」という文字が頭をよぎるが、スキーをやるために続けたという。

高校卒業後は、地元菅平にあった「日本スポーツレクリエーション専門学校」(JaSRA)に進学して、国体を目指す。国体は予選止まりだったが、もっともっとスキーが上手くなりたいと、20歳になってすぐに準指導員の資格をとり、白馬八方尾根スキースクールに勤務した。そして、技術選を目指して基礎スキーを始めた。

「自宅の窓から北アルプスが見えました。10月、11月になると真っ白になって、もう白馬は降ったんだなあと山並みを見ながら学校へ通っていました。広くて、大きな斜面がある白馬には昔から憧れがあって、長野オリンピックがあった1998年に白馬へ来ました。最初は、雪が柔らかくて、全然滑れなかったです。菅平は、なんとなくエッジを使っていれば滑れるけど、白馬は、柔らかい雪が抵抗になって、なかなか思うように滑れない。スキーの奥深さを感じましたね」

20年ほど、インストラクターとして八方尾根で働いたあと、会社員として職業を転々とし、33歳のとき、ライダー兼ガイドとして本腰を入れるため山に通うようになる。

Photo:Wataru Sugimura



「ガイド資格をとってから、夏は登山ガイドをやっていました。夏のお客さんは、お花を見たい、写真を撮りたいと求めるものが多様すぎて、ちょっと僕には難しすぎて、夏のガイドはやめました。いまはテレビ撮影班のボッカや小谷村山案内人組合で登山道整備とか道標の付け替えで、山に入っています。山の仕事がないときは、板金屋で屋根の張り替えバイトなどもやっています」

植物やカメラの知識がないままガイドを続けている人は、五万といるだろう。佐藤は、お客さんの要求に、高いレベルで応えたいと願うガイドなのだと察しがついた。