先日、某友好国の情報機関大幹部と懇談していたら、友人として申し入れを受けた。日本政府各省庁のカウンターパートがくるくる代わりすぎるという苦情だった。知り合ったと思ったら代わっていく、これでは仕事ができない。一期5年の任期を二期にわたって務めることとした同人の立場から、もっともな指摘だった。
その昔「一年総理」が6人続いた頃、メルケル独首相が、日本の総理の名前を覚えてもすぐ変わってしまうので、もう覚えないこととした旨述べたとされた。同根の問題だ。
大抵の霞が関の幹部ポストでは、任期2年どころか1年でコロコロと代わることも珍しくない。ポストに慣れたと思ったら交替し、知見の蓄積、内外の仕事上のパートナーとの信頼関係の構築など、絵に描いた餅となる。民間企業にあって官庁の人間と付き合ってきた方々が身に染みて感じてきた問題だろう。
こんな状態では、政策に通じたテクノクラート集団たるべき霞が関が、永田町の政治家との比較優位を失うのも必至だ。むしろ、長年、同種の問題に継続的に取り組んでいる政治家の専門性の方に一日の長があることになりかねない。
霞が関人事のもう一つの大きな問題は、年次主義だ。入省年次で一期でも先輩になると、後輩の生殺与奪の権限を握るやり方は限界にきているのではないか。
外務省の昭和58年(1983年)入省組は、泰然自若とした戦略家は見当たらないが、チマチマと器用に走り回る小役人が多いと評されてきた。一期上の57年入省組から、「7番バッター、8番バッターが多い期」と揶揄された程だ。
ところが、官僚人生終盤に当たって58年組の森健良が次官に昇格して人事権を握ると、同期への配慮なのか、能力や適性や専門分野にかかわらずニューヨーク、北京、ジュネーブなどの主要ポストに配置する荒業を次々に繰り出した。
北京では、中国専門家で豊かな在勤経験と広範な人脈を有する垂大使を交代させ、異例なことに垂(秀夫)より二期も上である自分の同期の金杉(憲治)を配置した。豪州研修で中国語もできず、中国にさしたる知見も人脈も有さない金杉は、着任後、蘇州、深センでの日本人児童を狙った殺傷事件への対応を巡り、強い批判の的となった。本人には気の毒だが、不自然かつ無理な人事の帰結と受け止められている。
そのかたわら、昭和59年入省組の梨田和也前タイ大使、私、60年入省組の垂は、58年組のみならず57年組もまだ現役として活躍している最中に退官を余儀なくされた。
かつて私の上司の条約局長だった丹波実氏(のち、駐ロシア大使)の口癖は、「人事は感情だ」だった。毒舌の同大使ならではの警世の句であったと、今になって身に染みている。
だが、外務省は公器だ。オーナー社長の一存で処遇が決まるような対応はご法度だ。いわんや、そんな人事を敢行して組織全体の士気を低下させ、長年にわたって培ってきた能力や専門性を十分に生かせないことになれば、機能不全を招き、国益を損なうのは必至だ。人事を司る者には、感情を捨てた無私、廉潔、公平性が求められることは、古今東西変わらない鉄則だ。そうでないと、外務省の劣化は底なし沼となる。
●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)、「歴史戦と外交戦」(ワニブックス)がある。