第97回アカデミー賞に向けて、10カテゴリーのショートリストが発表された。映画『Emilia Perez(原題) (以下エミリア・ペレス)』が国際長編映画賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞、作曲賞、歌曲賞に2曲(「El Mal」「Mi Camino」)、そして音響賞と5部門6選出を果たした。この映画はメキシコを舞台に、スリリングなプロットと斬新かつ魂を揺さぶる音楽と踊りで、登場人物がそれぞれの感情を表現するという、手に汗握る切ないクライムドラマである。第77回カンヌ国際映画祭では、ジャック・オーディアール監督が審査員賞(国際審査員賞)を受賞したほか、最優秀女優賞にエミリア役を演じたカルラ・ソフィア・ガスコンと、ゾーイ・サルダナ、セレーナ・ゴメス、アドリアーナ・パスの4人の女優がカンヌ国際映画祭では初となるグループでの主演女優賞受賞を果たした。彼らのダイナミックな歌と踊りを演出した仏監督ジャック・オーディアールは新たな境地を開花させている。その映画製作の背景にはファッション界の鬼才アンソニー・ヴァカレロのメゾンが立ちあげたサンローラン・プロダクションがプロデュースという斬新な映画。このコラムでその見どころをご紹介。
「美女と野獣が一つの体に生きている」オーディアール監督 談
物語は、泣く子も黙る麻薬カルテル(麻薬の製造から流通、販売を仕切る犯罪組織)のボスが、自らの運命を変えるために、民間で働く女性弁護士を雇うところから始まる。
この物語を思いついたのは仏映画の名匠ジャック・オーディアール監督自身。『預言者』(2009)、『君と歩く世界』(2012)、『ディーパンの戦い』(2015)など日本でも彼の映画ファンは多いはず。オーディアール監督は、ボリス・レイゾンの小説「Écoute」 (訳:「耳を傾けて」)を読み、その中に、麻薬カルテルのボスでありながら女性になりたい願望をもつ登場人物がいたことから、企画のひらめきを見出した。友人であるこの本の著者ボリス・レイゾンにこの登場人物を発展させたいと依頼したのが映画制作のはじまりだとW Magazineのインタビューで答えている。
監督は自身のビジョンを実現するためのダンスが得意で歌唱力のある女優をさがしていた。その眼鏡にかなったのが、ジェームズ・キャメロンに見初められた『アバター』シリーズや、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズで知られる女優ゾーイ・サルダナ。ゾーイはドミニカ系アメリカ人の父とプエルトリコ人の母をもつアメリカ生まれ。もともとダンサー出身でまさに自らの根源に帰るようなこの役のオファーに感銘し、全身全霊でダンスのトレーニングに励んだという。
監督は、ゾーイの忙しいスケジュールを待ち、企画を1年寝かせて撮影開始。メキシコでのロケなども検討していたものの、俳優のスケジュールに合わせることを優先し、主にパリ近郊のセットで撮影。プロダクションデザインは、『落下の解剖学』のエマニュエル・デュプレ。
ゾーイの役どころは、メキシコの汚職を扱う弁護士アシスタント。有能にもかかわらず、仕事の内容は腐敗していて、それでも真面目に、理不尽な男性上司の下で仕事をするメキシコ人女性。しかし彼女が歌とともに踊りだすと、その動きは怒りと抵抗に満ち溢れる。映画がミュージカルとして成功しているのは、主人公それぞれの内面が歌や踊りで描かれる点にある。後半のパーティのシーンは、ゾーイの演技を全面に出すために、音楽も変更し、振り付けを優先して撮影されたそうだ。彼女は、アカデミー賞前哨戦でも最有力の助演女優賞候補である。
一方、この映画の主演女優賞に、数々のアカデミー賞前哨戦でノミネートされているのが、トランスジェンダー女優として活躍しているスペイン出身のカルラ・ソフィア・ガスコン。彼女の役は麻薬カルテルのボスで、銃撃戦など、悪の根源を生み出してきた過去を全て捨て去り、男性から女性に生まれ変わりたいという願望をもつ複雑な主人公。ゾーイ扮する若い女性弁護士を雇って、女性エミリア・ペレスとして生まれ変わる役である。オーディアール監督は最初、カルテルのボス、マニータス役に別の男優を考えていたが、ガスコンに出会って、マニータス役とエミリア(マニータスが性別適合手術で女性エミリアになる。)役をガストン一人が演じるという一人二役を決断。「美女と野獣が一つの体に生きている」とエミリア・ペレスの世界観について記者会見で語っていた。
カルラ・ソフィア・ガスコンはこの作品の依頼がきた際、ミュージカルと聞いて愕然。音符を読むことができないながらも、歌のレッスンで見事な声の幅をみせ、リアリティのある存在感で主演女優賞候補として注目されている。ガスコン本人は、試写のあとのパーティでもスタッフと残って記念撮影。照明の暗いパーティ会場でのセルフィー撮影では、バッグに入っていた照明器具を取り出して、関係者を笑わせながら写真撮影。そのお茶目さから彼女の人気がよく伝わっていた。本作の鑑賞後には、性転換者たちの心に触れるような特別な感情が沸き上がってくる。
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人生より大きなプロジェクトー仏作曲作詞家、カミール 談
映画『レミーのおいしいレストラン』(2007) 、『リトルプリンス 星の王子さまと私』 (2015) 、 レオス・カラックスのロックオペラ『アネット』(2020)やアニメーション作品『リンダはチキンがたべたい!』(2023) の音楽も手掛ける作曲チーム、カミールとクレモン・デュコル。内面の思いと感情を映し出す楽曲は、監督が「15ページの脚本が1曲にまとまった」と喜んだほどで、映画では16楽曲がまさにオペラのように、歌からはじまり、歌で閉めくくるような構成になっている。カミーユ&デュコルは、2020年の1月にオーディアール監督から依頼されて以来、約2年間かけて作詞作曲。4人の登場人物の配役が決まってからは、より鮮明に、それぞれの女性たちの個性が明確になっていったそうだ。
音楽イベントで歌うカミールと記者会見 写真 / 著者
ゾーイ演じる弁護士リタ役はどちらかというと、ラッパーやハードロック・シンガーのような存在で、メキシコの情熱をカラフルな色で描くような楽曲。ガスコン演じるエミリア役は感情豊かで、親密かつ、どこか自虐的な切ない楽曲。麻薬カルテルのボス、マニタスの元妻ジェシーの楽曲も格別。演じたのは若手人気歌手として有名になったものの、自己免疫障害などを患い、休業していた時期もあったが、現在はキャリアの幅を広げて女優業に力を入れているセレーナ・ゴメス。ジェシーという役どころは、カルテルのボスに愛されて2人の子供に恵まれた若い母親。実際は、彼女の人生に自由はなく、ボスによって人生を決められてきた、籠の中の鳥のような存在。本当の愛に飢え、その欲望の影に抑え続けてきた怒りがあることが分かる楽曲が用意された。
オーディアール監督は、セレーナ・ゴメスのドキュメンタリー映画『セレーナ・ゴメス: My Mind & Me』(2022)を見て、脚本にあるジェシー像を、デリケートで苦悩に耐えてきた存在として詳細に書き換えたそうだ。セレーナ・ゴメスの歌うシーンも見事で、撮影も、カメラの動きで主人公を描くかのように、生々しさを感じる照明を設置。ジェシーの悪夢がその歌と踊りから分かるようなシチュエーションでスタイリッシュに撮影されている。アカデミー賞ショートリストにも入っている「Mi Camino」という楽曲をカラオケで歌うシーンは、18テイク撮ったなかで、カットなしの生の歌声が使われているそうで、記者会見では恥ずかしそうに監督のリアリティへのこだわりを語っていた。
チームでとった主演女優賞、4人目を担ったのはメキシコ人女優として活躍している女優アドリアーナ・パス。エミリアの人生を変える女性エピファニア役の楽曲は、民衆の価値観や生活から生まれたような暖かい要素がこめられていて、主人公エミリアが生まれ変わって巡り会う幸せを象徴するデュエットの旋律もまた美しく、音楽と一体になったこの映画は始まりから終わりまで躍動感に溢れている。