実際どうだった?体験者が語るパリ2024大会ボランティアの舞台裏

世界的なスポーツの祭典、オリンピック・パラリンピックで注目を集めるのはアスリートたちだが、その活躍と大会の盛り上がりを支えたのがボランティアだ。競技の運営だけでなく、街中での会場や観光案内、関係者の移動時の車のドライバーなど様々な場面で活動し、大会に不可欠な存在となっている。今夏行われたパリ2024オリンピック・パラリンピックでも、世界中から集まった4万人(募集時の人数)のボランティアが活動した。
パリ2024大会のボランティアには、日本からも参加した人々がいる。その一人が松木沙智子さんだ。視覚に障がいがあり、不安を抱えながらもパリ2024大会でボランティアに挑戦した彼女は、どんな活動をし、何を感じたのか。お話を伺った。
※本シリーズ「パリ2024大会とボランティア」は、日本財団ボランティアセンターとのコラボレーション企画です。

「障がいを隠さなくてもいい」パラスポーツとの出会いからオリパラの世界へ


都内で取材に応じる松木さん。ボランティアウェアやグッズの一つひとつに思い出が詰まっている 撮影:パラサポWEB編集部

視覚に障がいがあると聞くと、白杖を思い浮かべる人は少なくないだろう。しかし、松木さんは、白杖を持って歩くことに長年抵抗があったと言う。松木さんは網膜色素変性症により、視野が狭くなり中心部分だけが見える状態。いわばラップの芯を覗いているような感じなのだが、全く見えないわけではないので、以前は白杖を持ち歩いていなかった。

「網膜色素変性症の進行が早くなった30代はじめ、障害者手帳を申請し、白杖を持つことを眼科医に勧められたんですが、抵抗がありました。白杖を持つということで、あの人は目が見えない人だと周りから思われるのが嫌だったし、障害者手帳を持つことで自分が障がい者だと認めてしまうような気がしてどちらも持つ事に抵抗がありました。でも、人や物にぶつかって怪我をしたりすることが増えたので、周囲の人に自分は目が見えないということが伝わった方が良いのかもしれないと思って、持つことにしたんです」(松木さん、以下同)

しかし、白杖=全盲の人というイメージが定着しているせいか、白杖を持った松木さんが何かを調べるためにスマホを見ていたりすると、“なぜ白杖をついているのにスマホを見ているのか”などと、心ない言葉をかけてくる人もいたのだそう。そんな経験もあって、松木さんは自分に障がいがあるということをなかなか受け入れられなかった。だが、障がいを隠さなくてもいい、障がいがあっても活き活きと生きることができると思わせてくれたのがパラリンピックだったのだと言う。

「ロンドンパラリンピックの時でした。水泳や柔道で自分と同じ病気の選手が活躍しているのを見たのがきっかけで、パラスポーツのことをもっと知りたい、自分の目で見てみたいと思うようになったんです」

自分をポジティブな気持ちにさせてくれたパラスポーツをきっかけに、オリンピック・パラリンピックへの憧れを抱き、東京2020オリンピックでは選手村の食堂で働く有償スタッフとして活動した。新型コロナウイルス感染症の影響下で開催された東京2020大会では交流も限られており、ひたすら配膳の業務をこなしたが、憧れていたオリンピックの場に身を置けただけで嬉しかったという。本来であればパラリンピック期間中も選手村で働く予定だったが、不運な怪我で叶わなかった。パラリンピックに対する思いが大きかっただけに「本当にショック」だった。

(広告の後にも続きます)

念願のボランティア! 選手村で目にした選手たちの笑顔


パラリンピックの選手村閉村日に挨拶に行った組織委員会のスタッフと共に。今もSNSでやり取りがあるんだとか

東京2020大会で目標を遂げられなかった松木さんは、パリ2024大会ではボランティアに申し込もうかと考えたが、視覚に障がいがあり語学にも自信がなく、ボランティアとして役目を果たせるだろうかと、大いに迷ったのだという。結局、締め切り当日に応募したところ、見事採用された。東京2020大会をきっかけにつながりができた、オリンピック・パラリンピックをはじめ、日頃からボランティア活動に親しんでいる仲間たちにも背中を押され、フランス語のオンライン授業などに誘ってもらい、準備は着々と進められた。

松木さんがいよいよパリへと旅立ったのは2024年7月7日。オリンピックに続いて、パラリンピックでもボランティアを行い、帰国は9月13日。約2ヶ月の間、ボランティアとしてはどのような活動をしたのだろうか。

「オリンピック期間の主な活動はボランティアのサポートで、選手団のサポートも兼務していました。ボランティアのサポートは、食事をするレストランへのチェックインや、日常の細々とした質問に答えることなどですね。その合間に、日本代表選手団のサポートなどもさせてもらっていました。空港から選手村に来られた選手を部屋まで案内したり、部屋の設備についてなど細かいリクエストに対応したり、さまざまな活動をしました」


オリンピック期間の最終日に、ボランティアや日本代表選手団のスタッフと一緒に撮った写真。大会期間中、長い時間を共にした仲間だ

たとえば、選手から“郵便局に行きたい”と言われれば、郵便局がどこにあるかを調べて教えたり、時には目的の場所に一緒に行ったりすることもあった。そういった選手たちが知りたがるような情報に関して事前にレクチャーなどはなかったため、ボランティアは全て自分たちで臨機応変に対応したのだという。

「パリでボランティアをして驚いたのは、“とにかくみんなで楽しもう!”という雰囲気があったことです。ボランティアの説明会でも、歌を歌ったり踊り出す人もいたりして、冗談も多くてすごく盛り上がるんです。“質問は?”と聞かれると、様子見する人は皆無で、どんな小さなことでも質問していいという空気。ボランティアの人たちからしてこういう雰囲気なので、大会も自ずと盛り上がっていくんだなと思いました」


日本からパリ大会に参加したボランティアの仲間で一緒に作ったボランティアのピンバッジ(写真中央)。松木さんがデザインの原案をつくったそうだ。大会に関連した数々のネイルとあわせて、他国のボランティアや選手にも人気だったとのこと

松木さんはオリンピック期間の日本代表選手団サポートの経験から、パラリンピック期間は、当初のボランティアのサポートではなく、日本代表選手団のサポートを専任ですることになった。

「選手村の選手たちは、パラリンピックの時は特にそう感じたんですが、とても楽しそうに競技に向かっているんです。本当にここに来られたことが楽しくて仕方がないみたいに。前回がコロナ禍の中で行われた大会だったから特にそうなのかもしれないですが、皆さんの笑顔がとても印象的でした」


パラリンピックの閉会式の日に、中国のボランティアの方と共に撮った写真。楽しそうな表情に充実した活動ぶりがうかがえる