ファン歴3年目を迎えた1983年はマイケルとポールのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」のヒットから始まった。この年を代表するメガヒットであり、ポップミュージック史に残る名盤『スリラー』からの第一弾シングル。主役は当然マイケルで、ポールはゲストボーカルのはずなのだが、曲自体はポールの方が目立っているような印象を受け、ファンにはうれしい一曲だった。
情報番組『アップルシティ500』で告知
ポールとマイケルのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」
全米最高位2位ということで、ラジオでも頻繁に流れていたものの、この曲はビデオクリップが作られなかったため、ミュージックビデオ番組で紹介されることはなく、ヒット曲にしてはちょっと寂しい印象だった。デュラン・デュランなどが出始めていて、時代は完全にMTVの時代になっていたからなおさらそう感じさせた。この「ガール・イズ・マイン」は、『ベストヒットUSA』では局が勝手に作ったようなイメージビデオで対応していた記憶がある。その後、マイケルは第二弾の「ビリー・ジーン」、第三弾の「ビート・イット」、第4弾の「スリラー」と、完成度の高いビデオを連発していったことを考えると、「ガール・イズ・マイン」にビデオがなかったことが不思議である。
そんな折、正月早々に映画『ハード・デイズ・ナイト』のリバイバル上映のニュースが報じられた。アメリカではビートルズのデビュー20周年を記念し上映されたもので、少し遅れて日本でも実現するということだった。しかしながらこの時点で『ハード・デイズ・ナイト』はファンクラブのフィルムコンサートで2度鑑賞しているので、個人的にそれほど新鮮には映らなかったが、新聞や雑誌、ラジオやテレビで大々的に告知展開がされていたので、無視するわけにもいかず、早々に前売り券を購入した。前売り特典はプロマイド型の大判チケットとオリジナルバッヂだった。
『ハード・デイズ・ナイト』前売り券
事前告知で覚えているのは、『ベスト・ヒットUSA』と『アップルシティ500』での大々的な展開だ。前者は「スター・オブ・ザ・ウィーク」で映画後半のライブシーンをほぼフル尺で放送、夕方5時から関東ローカル放送されていた若者向け情報番組の後者は1時間番組の大半をビートルズ特集にあて、司会の松宮アナ(TBSアナウンサー)とスティーブ・ハリス(当時渋谷陽一のアシスタントのような役割でラジオや雑誌に出ていた)がビートルズの魅力や最新情報を紹介しながら『ハード・デイズ・ナイト』のリバイバル上映を告知していた。この2つの例をとっても、80年代前半のビートルズの情報は主に若者向けに発信されていたことがわかる。
(広告の後にも続きます)
冒頭に追加された「ぼくは泣く」
その『ハード・デイズ・ナイト』は、春休みロードショーとして3月12日から上映が始まり、わたしは春休みの一日に銀座のロキシーという映画館で鑑賞した。たしか平日だったと思うが、客席は若者を中心にほぼ埋まっており、肝心の映画はニュープリント版ということもあって画質は明るく、新装された字幕も読みやすかった。また音にも迫力があり、とくにライブシーンに興奮させられた。フィルムコンサートとは違うなと感じたことを覚えている。
パンフレットの中ページ。あらすじを紹介
このときの『ハード・デイズ・ナイト』は冒頭に「ぼくが泣く」の映像が追加されており、それがニュープリント版のひとつのウリになっていた。写真のコラージュ映像で演奏シーンはないが、前座的に「ぼくが泣く」が流れ、ワンクッション置いてうえでの♪ジャーンもなかなかいいじゃないか、なんて思ったものだ。84年にベストロン、95年にビデオアーツから出たVHSも「ぼくが泣く」から始まるものだったから、自分の中ではすっかり定着していて、01年の再々上映でカットされたときには少し物足りなく感じた。
初めて映画館で観る『ハード・デイズ・ナイト』はやはり最高だった。4人が全身全力で表現する音楽を大画面と大音量で浴びるように観て、聴けることは最大の喜びで、満足感いっぱいで会場を後にした。3度目の鑑賞を誇りに思いながら、購入したパンフをめくっていると松村雄策さんという方のレビューが目に入った。この頃まだ『ロッキング・オン』読者ではなかったので、その名前をまだよく存じておらず、ここで初めてその名前がインプットされる。そこで松村さんは『ハード・デイズ・ナイト』が大好きとしたうえで、「映画館で150回、テレビやビデオで見た回数も加えると300回近く観た」と書かれていて、3回目の自分なんてまだまだひよっこだと自覚したのであった。