「母になりたい」とはとても思えない、でも、「母にならない」というファイナルアンサーもできない。どうして産みたいと思えないのか、どうして産みたくないと言い切れないのか。コラムニストの月岡ツキさんは、いま私たちが生きている社会で子どもを幸せにする自信がないからだという。
書籍『産む気もないのに生理かよ!』より一部を抜粋・再構成し、母にならない女性の葛藤をお届けする。
親になる決意が持てない
「まだ存在していない人間の意思は聞けないし尊重できないわけで、そうなると新たな人間を意図してこの世に産み出すという行為はすべて『すでに存在している人間(親)が何らかの希望を満たすために行うもの』ということになる。
『生まれてくる子供の意思を尊重して、彼らが『生まれてきたい』と強く希望したので、子供をつくることにしました』というのは、どだい不可能なわけだ。
世の中には「そんなこと考えたこともなかった」という人も少なからずいると思うのだが、私は「そんなこと」ばかり考えてしまう人間である。「子供という他人の人生を、私が勝手にはじめていいのか?」と思ってしまうのだ。
だから、おいそれと親になれないでいる。
親になる、ということは、「自分のところに生まれてきたら、その子供はまあまあ幸せになれるだろう」という確信と、「自分は親になったらそこそこ子供を幸せにしてやれるだろう」という自信がないとできない行為ではないか。
実際に親をやっている人は、「いやいや、そんな確信も自信もないですよ」と言うかもしれないが、「子供を幸せにできないだろうなあ」と思いながら意図して子供を持とうとする人は、あまりいないように思う。みんな少なからず、「自分は生まれてくる子供を幸せにできる」と信じて親になっている。
その確信や自信が失われないように頑張ろう、と思うのが「親になる決意」ってやつなのだろう。
私はその点で、確信や自信が全くない。よって決意ができない。生まれてきた子供が幸せになれるかどうかには不確定要素が多すぎて、何ら保証できることがないからだ。
勉強が苦手だったら?
いじめられてしまったら?
人とかかわるのが苦手だったら?
そういった、子供自身がコントロールしきれない要素を乗り越えてなお、幸せに生きていけるのだろうか?と思うと、簡単には「大丈夫」とも「私が幸せにしてみせる」とも言えないのだった。
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「この世は生きるに値する」
子供自身だけでなく、社会の環境も不確定要素ばかりだ。
戦争に環境問題に自然災害に、私たちすでに生きている人間ですら10年後に無事に生きているのか不安になるような世界である。
生まれてくる子供に保証できるものなんて何もないと感じる。ちょっと深刻に考えすぎ?いやいや、そうとも言えないような出来事ばかり起こっているじゃないか。
こんなに不確定要素だらけなのに子供を産み育てている人を見ると、正直なところ「よくやるな」と思ってしまうのも事実だ。「どうしてそんなに自分も世界も信じられるの?」と。
私と同い年で母親になっている女友達は、学生時代から子供を産むまでのあいだに「子供が欲しい」という感情に迷いが生じたことは一度もなかったという。無事に授かれるかどうかが不安だったことはあるし、親になってからも子育ての方法で悩むことはあるが、そもそも親になるかならないか、で悩んだことはなかったらしい。
いろいろな不安要素を「えいっ」と飛び越えて「きっとなんとかなる」のほうに賭け、「だって欲しいんだもん」とエゴだのなんだのをまっすぐに無視できる姿が、私には素直に輝いて見える。
ラピュタが見たかったから危険を冒して旅立った『天空の城ラピュタ』のパズー、海の見える街で働くことに憧れて、無謀でも実際やってみた『魔女の宅急便』のキキ。宮崎駿作品をビデオテープが擦り切れるまで見て育ったはずなのに、全然そんなふうに生きられない大人になってしまった。そうなれないからこそ何度も見てしまうのかもしれないが。
宮崎駿は2013年の引退(その後、撤回した)会見で「この世は生きるに値する、ということを子供たちに伝えたくて映画を作っている」というふうに言っていた。
この会見のとき私は20歳かそこらで、当時は引退の事実にだけショックを受けていたが、30歳を超えた今となってはあの引退会見のときの言葉がボディブローのように効いてきている。
「この世は生きるに値する」
この言葉は今現在この世を生きている私を勇気づける一方で、同時に後ろめたい気持ちにもさせる。
彼の作品を何度も何度も見て育ってきた私は、「この世は生きるに値する」と心から思えているのだろうか?それを次の世代の子供にも胸を張って言えるのだろうか?