「普通に幸せに」生きる難易度が高すぎる
子供という他人の人生を勝手にはじめられる人は、少なからず「この世は生きるに値する」と思っているのだ。この世にはいろんなつらいことがあるけれど、幸せなことだって必ずあるから、この世界に出ておいでよ、と。
私自身も、これまでの人生でいろいろなままならないことやつらいことがあったけれど、なんだかんだで今は幸せに生きていると感じる。ここに何かを足したり引いたりする必要がないと思うくらい。
もちろん、もっとこうなりたいとか、もっとこんなものが欲しいとか、こうなったらいいなあという願望はあるけれど、現在地にそこそこ満足している。
しかし、それはあくまで私がいろんな面で幸運だったからだ。だいたいにおいて健康だし、めちゃくちゃ金持ちなわけではないが貧困ではないし、気の合う夫や友達もいる。
幸運だったからこのクソみたいな世界でなんとかなっているけれど、このクソみたいな世界に新メンバーを勧誘したいか?と言ったら素直に「したい」とは言えないのだ。たぶんかなり大事な存在になるであろう自分の子供ならなおさらだ。
しかし、今よりももっと大変な時代、たとえば戦時中とか、戦後の復興期なんかはもっとクソみたいな世界だっただろうし、もっとみんな貧乏だっただろうに、今より子供は多かったのが不思議でならない。
本当にみんなその時代も「この世は生きるに値する」と思えていたのだろうか?
そこまで深く考えられないほど「結婚したら子供を持つのが当たり前」で「産めよ増やせよ」という世の中だったのだろうが、生まれてきた子供には幸せになってほしいという気持ちだってたしかにあっただろう。もしかしたら「幸せ」のハードル設定や定義が違ったのかもしれない。
今の一般的な「幸せ」はというと、健康に生まれ育ち、そこそこに勉学に励み、それなりの大学を出て、適齢期で結婚・出産して夫婦と子供一〜二人が食べていけるだけの収入を得て、病気にならず介護も必要とせずに年老いて死ぬ、というルートが思い浮かぶが、このルートに完璧に乗れている人なんて本当にいるのか?と思うくらい、「幸せ」になるのが難しくなった。
「普通に幸せに」生きる難易度が高すぎるのだ。
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この世界を信じ切ることができない
こういうことを言うと、「幸せなんてものはそんな大それたものではなくて、お花が綺麗だなとか、空が青いなとか、家族や友達と過ごす喜びとか、そういうことを感じられるのが幸せなんだよ」という人もいると思う。
しかし実際のところ、食うに困るのでは花を見たり、空を見たり、人とかかわったりする余力も湧いてこないのだ。税金が上がって給料は増えないのに、今の日本社会は自分で稼いで食べていけない人への風当たりは強い。病気や障がいを持っている人やマイノリティへの風当たりはさらに強い。
「普通」のブロックだけを踏んで歩いていける人がほとんどいないのに、そこから外れたらなかなか引き上げてもらえないのだ。
花の美しさや空の青さや人とのかかわりは心を打つし、そういったものに触れるとき、たしかに「この世は生きるに値する」と思える瞬間はある。
しかし、人間が作った社会の仕組みがそういう小さな幸せを台無しにしていると思えてならない。だから私はどうしても、この世界を信じ切ることができない。
私はもう宮崎駿が映画を作る理由だった「子供」ではなく、「生きるに値する世界」を作る側の「大人」になってしまった。私が子供を世に生み出すことはないかもしれないが、これからの子供たちが大人になったとき、「この世は本当に生きるに値するのか?」なんて思わなくていい世界を作っていく側なのだ。
正直、全然明るい気持ちになれない。
それでも、この世を構成している一人の大人なりに、少しはマシな世の中になるように、小さなできることをやっていくしかない。
写真/shutterstock