約30年にわたって愛されている名作『行け!稲中卓球部』を再読したところ、びっくりするほど受け取る印象が変わっていました。前野の結婚相手の謎と合わせて、当時を振り返ります。
『行け!稲中卓球部』13巻(講談社)
【画像】え…っ? 第一候補はこの子かな? こちらが前野と結婚したかもしれない『稲中』のクールビューティーです
時代を超えて愛される名作ギャグマンガだが
古屋実さんの『行け!稲中卓球部』(以下、『稲中』)は、90年代を代表するギャグマンガの名作です。みんなが見て見ぬふりをしている問題に注目したり、身体的特徴をいじったりするスタイルの笑いが特徴ですが、令和に見直すといろんな意味でつらさが感じられます。
この記事ではそんな『稲中』に関して、いまだに答えが出ないことで知られる「前野」の結婚相手について振り返りつつ、約30年ぶりに読み直して感じた「つらさ」の原因について考えてみます。
あの前野ですら結婚に悩んでいる
単行本13巻に収録されている「その155 中天」では、前野が自分の将来の結婚相手について思い悩みます。いかにも中学生らしい、年齢相応の極めて普遍的な問題ですが、そこはさすが『稲中』です。
すぐに「伊沢ひろみ」や「田中」に引っかき回されて、「もしかしたら相手が人ではないかも?」「セイウチかも」「あたしセイウチのキバ子」「早く死んで来世でセイウチに生まれ変わって」といった具合に連鎖的に妄想が膨らんで、思考実験があらぬ方向に暴走します。
結局、将来の結婚相手に悩む前野の問題はいっさい解決しないまま「中天」は幕を閉じるのですが、問題は最後のコマです。突然、こんな問題が投げかけられます。
この中に将来前野と結婚をする相手がいます。さて誰でしょう
そのコマのなかにいるのは傷心の前野を慰める井沢と田中、土手には「竹田」と「岩下京子」、そしてデフォルメされたホームレスのような風体の人物、犬の散歩中の誰かの後ろ姿です。もちろんいっさいのヒントがないので、特定はできません。言ってしまえば第4の壁を破った古谷先生流のギャグなのですが、当時は読者の間で前野の結婚相手について議論が盛んでした。
コマのなかで女性と思しき人物は岩下と後ろ姿の人物だけなので、順当に考えれば岩下が結婚相手になると思われます。彼女は竹田の恋人でしたが、グループ内で交際相手が変わるのは、「よくあること」でしょう。
それはもはや贅沢では?
結婚相手の正体はさておき、約30年ぶりに読み返してつらいのは、こういった前野の常識が今はほとんど通じなくなっている点です。『稲中』が連載を始めたのは1993年、厚生労働省のホームページによれば当時の日本の年間出生数は120万人ほどです。ちなみに2024年の推定出生数は。74万人に過ぎません。1993年の男性の生涯未婚率は7%程度ですが、2024年は約20%にも達します。
前野ほどエキセントリックな少年ですら、将来は結婚して子供を作る、という常識を持っています。だから「結婚相手がいなかったらどうしよう」という悩みを抱えており、その悩みが真剣だからこそ、混ぜっ返してギャグになるのです。
単行本13巻の巻末では『稲中』完結に際して寄せられた声のなかに「投げやりなニヒリズムと乾いた笑い」との評価がありますが、今のほうがよほどニヒリズムも進行しています。そのせいか『稲中』からは、まだ余裕があった時代の「やさしく人情のある」ノスタルジアが感じられるほどです。
なにせ作中で前野に向かって「お前が結婚できると思うなよ」などと、根本的な部分に辛辣に突っ込む人物は誰もいないのですから。