揺るぎない信念をもったリーダー、クシャナとエボシ御前。実はふたりとも、「科学によって自然を支配」しようとする、同じ思想を抱いた人物なのです。



クシャナ 画像は『風の谷のナウシカ』静止画 (C)1984 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, H

【画像】脱いだらすごっ! こちらが鎧を着ていないクシャナです

信念を持って生きたふたりの女性

『風の谷のナウシカ』の「クシャナ」と、『もののけ姫』の「エボシ御前」を比較すると、驚くほど共通点が多いことが分かってきます。ふたりとも揺るぎない信念をもったリーダーであり、多くの信奉者を抱えるカリスマであり、科学によってこの世界をより住みやすくしようとする近代合理主義者です。

「トルメキア」の第4皇女クシャナは、有毒なガスを放つ「腐海」を焼き払うことで、人類への脅威を取り除こうと考えていました。映画の終盤では、「王蟲(オーム)」をせん滅させるために伝説の最終兵器「巨神兵」を蘇らせ、「薙ぎ払え!」という有名なセリフを言っています。彼女は、テクノロジーへの希求が人類の幸福につながることを信じて止みません。

 一方のエボシ御前は、地侍やもののけたちからの襲撃に備えるために「タタラ場」と呼ばれる共同体を築き、砂鉄から鉄を取りだして火器を作っています。鉄を作る行為は自然を破壊させることと同義ですが、エボシ御前は仲間たちを守るために、あえていばらの道を歩みます。彼女は確固たる信念をもって自然=荒ぶる神々と対立するのです。

 科学によって自然を支配すべきなのか、畏怖の念をもって自然と共生すべきなのか。実際にはそれほど単純な物語ではありませんが、煎じ詰めると『風の谷のナウシカ』も『もののけ姫』も、そのようなテーマを有した作品といえます。

「ナウシカ」は自然と共生する立場としてクシャナと対立し、「サン」も同じくエボシ御前と争います。『もののけ姫』の主人公アシタカは、両者の対立をなんとか食い止めようとする中間的な役割といえるでしょう。あるテーゼ(命題)に対して真逆のアンチテーゼを提示することで、物語は非常に複雑な様相を呈していきます。

 ひとつ、興味深い事実があります。クシャナの左腕は蟲に襲われたために義手となっており、「我が夫となる者はさらにおぞましきものを見るだろう」というセリフから、ほかにも身体が欠損していることがうかがい知れます。シシ神を殺そうとしたエボシ御前も、映画の最後で犬神モロに腕を食いちぎられてしまいました。自然(=蟲、もののけ)と争った代償のようにして、彼女たちは腕を失っているのです。

 実は、鈴木敏夫プロデューサーは「シシ神を殺そうとしたエボシ御前が死ぬ」というエンディングを望んでいました。確かにそのような結末であれば、「自然との共生」というテーマが分かりやすく前景化したことでしょう。しかし宮崎駿監督は、そのような安易な決着を選択しませんでした。彼女を生き永らえさせることで、単純な二項対立から逃れ、観客に深い熟思を促したのです。

 クシャナとエボシ御前は、おそらく宮崎駿監督の思想とは異なるこれらのキャラクターを、全否定することなく物語に溶け込ませることで、『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』は多層的な構造を持つ作品となったのです。