〈箱根駅伝・早稲田復活へ〉花田勝彦監督がつくる「強い早稲田」への道…「監督就任後、まず最初に“練習メニューを白紙”にした」理由とは

2025年も、1月2日、3日の2日間にわたり箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催される。101回大会となる今年、古豪復活を期するのが、早稲田大学だ。2022年6月から早稲田の駅伝監督を務める花田勝彦監督は「強い早稲田」を取り戻すために着手した改革とは。

『学んで伝える ランナーとして指導者として僕が大切にしているメソッド』(徳間書店)より一部抜粋・再構成して、その改革内容をお届けする。

強い早稲田を取り戻すために

2024年、指導を始めて20年になった。2004年3月に現役を引退。その4月に上武大学駅伝部監督となって、その後、12年間指揮をとった。

「競技者として」と「人間として」の成長を、育成の2本の柱として指導に当たり、就任5年目で予選会を突破し、念願だった箱根駅伝に出場することができた。

2011年の全日本大学駅伝対校選手権大会(全日本大学駅伝)では初出場で総合6位に入り、シード権を獲得した。

箱根駅伝のシード権、その先にある総合優勝には到達できなかったが、大学駅伝界で常連校としての礎を築くことはできた。2016年からは、創部された実業団チーム、GMOインターネットグループ陸上部の監督に就任した。上武大学時代にも指導した山岸宏貴がドーハ世界陸上競技選手権のマラソン日本代表として出場。橋本崚が2019年のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で5位に入り、東京オリンピックのマラソン日本代表の補欠に選ばれた。

また、2020年の福岡国際マラソンでは吉田祐也が優勝を飾った。このように、個人、とくにマラソンでは日本代表クラスの選手を育成してきた。

しかし、その一方でチームとしての駅伝では、初出場だった2020年のニューイヤー駅伝で5位と奮闘したものの、なかなか優勝争いに絡めず、会社や応援してくれる人たちの期待に応えられなかった。個の育成とチームの強化とのジレンマがあり、疲弊してしまった。そして、現場を去ることを決めた。

指導からはしばらく離れるつもりが、2022年6月に母校・早稲田大学に指導者として戻ってきた。

最初は週に何回か、OBの1人としてアドバイザーのような立ち位置で指導に関わるはずだったが、前述のとおり、駅伝監督に就任することになった。

チームを立て直し、強い早稲田を取り戻すには、5年、いや、ひょっとしたら10年以上かかるかもしれない。

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一競技者である前に、一社会人であることが大事

30代前半で選手とともに走って上武大学を率いていた頃とは、明らかに体力も違っていた。また、実業団で指導するようになってからは、ストレスで腰痛を抱え、体調を崩すことも多かった。そこで、監督に就任するまでの移行期間にジム通いを始めた。ストレス発散と体力向上を考えてのことだったが、体も絞れて腰痛も出なくなり、万全に近い状態で指導をスタートすることができた。

早稲田に戻ってきても、指導の根本にある部分は変わらない。

「一競技者である前に、一社会人、きちんとした人間であることが大事」

このポリシーは、私が学生だった時代から早稲田がチームとして大切にしていたものだ。瀬古さんと一緒に初めて母校の練習を見学したとき、私たちが瀬古さんから教わった、「礼に始まり礼に終わる」という精神が、今も受け継がれているのを感じた。

その一方で、ケガ人が多いのが気になった。おそらく全体の3分の1くらいしか練習をしていなかったのではないだろうか。3分の2はケガをして別メニューだった。練習スケジュールを見せてもらうと、かなりハードなメニューが組まれていた。前年度に10000メートル27分台のランナー3人を擁し、大学駅伝三冠を目指していたにもかかわらず、箱根駅伝でシード権を落としてしまっただけに、強い早稲田を取り戻そうと練習の強度を上げていたのだろう。

もちろん選手たちも望んで、そういう練習に取り組んでいたのだと思うが、ハードな練習にいきなり取り組んだら壊れてしまうのも当然だった。

数学にたとえるなら、足し算や引き算、掛け算、割り算ができないのに、いきなり因数分解などの難しい計算に挑むようなものだった。