田沼意次(おきつぐ)の時代、自由な風潮のもとで江戸の出版文化は最盛期を迎えた。しかし松平定信が老中首座になり寛政の改革が始まると、蔦屋重三郎が出版していた黄表紙などは“有害図書”とされ、統制や弾圧を受ける。版元の経営を支える主力商品の危機に、彼はどう対処したのだろうか?
本稿は、車 浮代著『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものをお届けする。
主力商品が有害図書に
田沼意次が実権を握っていた頃、江戸の出版が全盛期を迎えました。
それには規制が緩く、社会を風刺した狂歌や物語も、アダルトのジャンルに入るような書物も、比較的自由に出版できたことが影響しています。
しかし、そのような自由な風潮が一変する出来事が起こったのが1787年です。この年、松平定信が老中首座となり、すでに失脚していた田沼意次の勢力を幕府から一掃。
世にいう「寛政の改革」が始まったのです。
この改革で定信が目指したのは、武士が清貧を理想とし、社会秩序が保たれていた8代将軍・徳川吉宗の時代でした。
よって、町人が公然と幕府を揶揄した書物や、悪しき風俗を広める可能性のある出版物は、ことごとく統制され、時には弾圧を受けました。出版禁止や営業の制限はもちろん、時には財産を没収されることも。
そしてご察知の通り、蔦重がヒットさせてきた黄表紙などの刊行物は、ほぼその対象になりそうな“有害図書”に値するものだったのです。
定信側から見れば、最も排除すべき対象となるのは必然のことでしょう。
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作家を辞めようとした山東京伝
では「寛政の改革」に対して、蔦屋重三郎はどのような態度で臨んだのでしょうか?
「版元の蔦屋重三郎は肝の据わった男で、幕府のお咎(とが)めなどさほど感じていないようだった」
これは黄表紙作家の山東京伝の弟、山東京山が書いた『山東京伝一代記』にある言葉です。
山東京伝は、まさに松平定信が禁じようとした有害図書、吉原の風俗を描いた「洒落本」でヒットを飛ばしていたのですが、蔦重の強気な出版は、ついに奉行所の取り締まりを受けることになってしまいます。
1791年、山東京伝が著した洒落本、『錦之裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『仕懸(しかけ)文庫』の3冊は、発売禁止。
しかも京伝は50日の間、両手に手鎖(てじょう)をつけたままの生活を強いられる、「手鎖五十日」という、作家にとって拷問に近い刑を執行されてしまったのです。
「もう作家業を辞める」と弱気になった山東京伝を、蔦重は必死に励まし、再起させたそうです。
さらに刑を受けたのは、作家だけではありません。
版元の蔦重も罰金刑の対象となり、一説には「身上半減」、つまり財産の半分を没収される重い過料を科されたとも記録されています。
もっとも、蔦重は罰金刑後も版元としての営業を続けており、本当にそれほど多くの財産を没収されたかは、疑問を持たれているようです。
ただ、幕府を揶揄し、民衆のガス抜きをしていた黄表紙や、風俗を描いた浮世絵など、経営を支えていた多くの書物が、発行を断念せざるを得ない状況に陥ったことは事実です。
このままでは遅かれ早かれ、版元として没落してゆきます。
この逆境に「肝の据わった男」である蔦重は、果たしてどのように対応したのでしょうか?