2025年大河ドラマ『べらぼう』主役・蔦屋重三郎、出版物は“有害図書”だらけ? 幕府と戦い続けた江戸のメディア王の信念

歌麿の美人大首絵を打ち出す

「寛政の改革」を現代に当てはめれば、政治を批判するワイドショーや雑誌や新聞が、すべて放送中止、出版禁止になったようなものです。

当然、それまで自由を満喫していた江戸の人々の不満は山積みでした。

だからこそ暗に幕府を風刺したような黄表紙の需要は高まったのですが、山東京伝の洒落本が発売禁止になったことで、これ以上、この分野の出版を続けることは難しくなりました。

そこで蔦重が考えた起死回生策は、喜多川歌麿による「美人大首絵(おおくびえ)」を販売することでした。

この「大首絵」というのは、ウエストアップ、あるいはバストアップの肖像画で、昭和でいうところのブロマイドであり、グラビアやポスター、あるいはアイドルの画像にあたるものでしょうか。

大首絵は、それまでは役者絵にしか見られなかった構図で、対して美人画はすべて全身像で背景があり、男も女も判で押したように同じ顔に描くのが定番でした。

人々は、顔の描き方でどの絵師の作品かを見分けることができたほどです。

当時の美人画は、今日まで続く役者絵の一大流派である鳥居派の、鳥居清長という絵師が人気を独占していました。

その作風は八頭身の健康的美人で、国や時代を問わない均整のとれた肢体は、「東洋のビーナス」と称されるほどで、彼の美人画は現在でも国内外で人気があります。

日本の歴史上、最も平均身長が低かったといわれる江戸時代、女性の多くは150㎝に満たない背丈に、なで肩の五頭身でした。

このような時代に、なぜ清長は八頭身美人を生み出せたのか? 

西洋の美人画を見た可能性もあるでしょうが、清長の本筋が役者絵であることを鑑みると、誰か彼の美意識をくすぐる、スラリとした美形の女形(おやま)をモデルにしたのかもしれません。

絶大な人気を誇る清長でしたが、鳥居派の総帥を継がねばならなくなり、人気絶頂の最中に美人画を自ら封印。役者絵に専念することになりました。

清長ロスに暮れる人々の心を一気に潤し、鷲摑みにしたのが歌麿の「美人大首絵」でした。

歌麿が描いたのは、市井の美女や人気の遊女、評判の高い美女たちで、顔をアップで描くことで本人に似せ、感情を忍ばせる豊かな表情を描き出しました。

歌麿の斬新な「美人大首絵」は、あっという間に清長を凌駕し、絵師としての歌麿の地位もまた、不動のものとなりました。

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東洲斎写楽を売り出した大博打

遊女たちの絵が人気を集めるのを嫌った幕府は、絵に彼女たちの名前を入れることを禁止します。

これに対抗して蔦重は、コマ絵を読み解けば名前になって誰の絵かわかる、「判じ絵」というものを考案します。

さらに幕府が遊女を描くことを禁ずると、今度は評判の茶屋娘を描くことで、公序良俗に反しない、「会いに行けるアイドル」を売り出す工夫もしました。

しかし、いつまでも幕府と追いかけっこをしたところでキリがありません。常に幕府が睨みをきかせており、頼みの歌麿も、このままでは仕事がしにくくなります。

そこで蔦重が目をつけたのが、娯楽の定番で規制もされていないもの。歌舞伎の「役者絵」だったのです。

このジャンルに登場したのが、東洲斎写楽という謎の絵師でした。

喜多川歌麿、葛飾北斎、そして歌川広重と並び、浮世絵師四天王の1人ともなっている写楽。ただし、その正体はいまだに判明していません。

定説では、能役者でもあった斎藤十郎兵衛という人物だったとされますが、果たして絵師でもなかった役者に、これだけの創作ができたのか。それゆえ喜多川歌麿や歌川豊国、あるいは葛飾北斎から山東京伝、蔦屋重三郎自身など、写楽の正体をめぐる説は多数あります。

いずれにしろ蔦重は、背景を黒く光る絵具で塗りつぶした大胆な手法で、この新人絵師の版画を、一気に28枚、同時発売しました。

普通、新人絵師が売り出す際の作数は多くて3枚程度ですから、これは途轍もない同時発売です。

写楽が活動したのはたった10カ月だったのですが、彼は忽然と姿を消すまでに、145点以上という膨大な数の絵を描き上げました。

もっとも、この写楽の作品が、当時の江戸で大ヒットしたかといえば、実のところ、「さほど売れなかった」というのが真相のようです。

それが10カ月で終わった理由でしょうか?

モデルとなった役者たちからも、「ありのままを描きすぎる」と不満を持たれていたことが知られています。

ただ、明治以降、写楽の作品は欧米の美術家たちが評価したことで、世界的に価値を高めました。

よって現在では写楽は浮世絵師として、最も有名な人物の1人とされています。

文/車 浮代