矛盾を社会に押し付けて教会内を純潔に保ったキリスト教


イエス・キリスト、彼自身は売春女性を救いの道に招こうとしたが後のキリスト教は売春女性を排除する方向へと進んでいった / credit:wikipedia

余談ですが、キリスト教の歴史において、売春女性は矛盾に満ちた立場に置かれ続けました。

救済と非難、排除と必要性――彼女たちは聖書の教えや教会の方針の間で揺れ動く存在であったのです。

キリスト教の創始者のイエスは売春女性たちを拒むどころか、救いの道へ招き入れる姿勢を示していました。

たとえばイエスに付き従ってきたマグダラのマリアは性的不品行を罪を犯しており、そのようなこともあって591年にグレゴリウス1世が「マグダラのマリアは娼婦であった」という解釈を出してから、2016年にバチカンが公式に否定するまでの間、娼婦であったと語り継がれていたのです。

マグダラのマリアが実際に娼婦であったのかについては議論が分かれているものの、イエスはそう解釈されかねない人物でも差別することなく側に置いており、非常に寛容な姿勢を見せていたのです。

しかしキリスト教が規模を大きくし、教会が制度として形を整えるにつれ、その寛容な姿勢は修正されていきます。

使徒パウロは「みだらな行い」を厳しく排除し、結果として売春女性は教会に居場所を失いました。

それでも教会は売春自体は必要悪という黙認しており、中世に至るまで教会が売春行為を非難することはありませんでした。

そのようなこともあって外の社会での彼女たちへの扱いは比較的やかでしたが、教会の純潔を保つため、内には決して入れられなかったのです。

 

売春女性の存在は、社会の暗部を映し出す鏡のようなものでした。

彼女たちは非難され、差別されながらも、結局のところ、その社会の秩序を維持するために必要とされる存在だったのです。

この二重性は歴史の中で繰り返し見られ、いまなお私たちに問いかけてきます。

人間社会はどこまで清廉でいられるのか――その答えを、誰もが探し続けているのかもしれません。

参考文献

神戸女学院大学機関リポジトリ
https://kobe-c.repo.nii.ac.jp/records/5335

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部