ビートたけし (C)週刊実話Web
著名人たちがホームページやソーシャルメディアで、結婚や謝罪を行うようになった昨今だが、昭和&平成の時代は記者会見を行うことが一般的だった。
“昭和100年”を迎えた2025年、数多く開かれてきた記者会見の中から、芸能記者たちが「伝説」と呼ぶ会見を総ざらい。コンプライアンスそっちのけだった時代のブッ飛びっぷりをご覧いただこう。
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報道各社にまだコンプライアンスの概念がなかった昭和後期から平成初期の芸能報道は、まさにルール無用。行き過ぎた報道が思わぬ衝突を招いたことも多かった。
その最たるものがお笑い芸人・ビートたけしが1986年(昭和61年)12月9日に起こした「フライデー襲撃事件」だ。
当時、世の中には80年代前半に創刊された“写真週刊誌ブーム”が巻き起こっていたが、事の起こりは写真週刊誌『フライデー』がビートたけしと愛人関係にあった専門学校生に強引な取材を敢行。
この女性が取材でケガを負ったことに憤慨したたけしが、11名のたけし軍団メンバーを引き連れて深夜、講談社(東京・文京区)のフライデー編集部に乗り込んだ。
「このとき、たけしさんはまず編集部に電話で抗議したが、らちが明かないため、軍団に絶対に手出ししないよう言明して編集部に押しかけた。その際も抗議して引き上げることを想定していたが、対応した編集次長が『自分は空手をやっている』と挑発。その態度にキレたたけしが『殺すぞ』『刑務所行きも上等だ』などと怒鳴り散らし、軍団員らとともに編集部にあった傘で相手を殴ったり、消火器を噴霧したりの大乱闘となったのです」(出版関係者)
結果、暴行や住居侵入罪などでたけしらは警視庁大塚署に逮捕された。事件から2週間を経て行われた記者会見はテレビでも中継され、一般視聴者を引き付けるに余りあるものだったのだ。
ビートたけしの男を上げた騒動&記者会見
会見に臨んだたけしは毅然とした態度で、次々と繰り出される記者たちの質問にこう答えた。
「言論や報道の自由があるように、僕にもプライベートを守る自由がある」
「暴力を使ったり、たけし軍団を連れて行ったことは非常に反省している…。しかし、自分の大切なものを守るために、暴力以外の対抗手段があるならお聞かせ願いたい」
「袋叩きになることはしょうがないと思っていた。あくまでも、やったのは俺自身の問題」
その真摯でブレない物言いはお茶の間の共感を呼び、暴力の糾弾や社会への影響を問う声が上がる一方で、同情論が巻き起こったのである。
かつて記者会見に参加したカメラマンはこう語る。
「後日分かったことだが、たけしが事件を起こした背景には、愛人女性がケガを負っただけでなく、法的にもスレスレと言える過剰取材がいくつも存在していたのです。その最たるものが楽屋に出入りするほど親しかったフリー記者の裏切りで、この人物が裏で写真誌とグルになり、たけしのプライバシーを極秘に内部リークしていた。それが分かったため、編集部に乗り込んだという側面もあったのです」
近年、この「フライデー襲撃事件」は広がりつつあるコンプライアンスの浸透とともに、歴史的評価が変わり始めている。
暴行の事実より、メディアの過剰取材に一石を投じ、「男を上げた騒動&記者会見」として見直されつつあるのだ。