モテない男は幸せそうに見えない
幸せについて、いくつかの「基準」の組み合わせを試して考えてみた。すると、一点「モテ具合」という項目が異質で、どうやら妙に重要らしいことが分かった。
各種の経験や豪邸の所有のような自由はお金で買える。名声も買えないことはない。ある種の人間関係までもお金で買えないことはない。
しかし、ナチュラルにモテるという状態をお金で買うことは、難しい。そして、「ナチュラルに」モテているのでないと、本人はかえって精神的に屈折してしまう。
父の観察はどうしても男性に偏るが、有名人や世間的には成功者でも、「この男はモテなくて性格がひねくれた」、「この男は若い時にモテなかったので、こじれた性格になった」と思わせる人物が実に多い。実名は挙げないが、あの人も、この人も、モテなかったおかげで性格が歪んでしまったことが手に取るように分かる。
父自身は、20代、30代の切実にモテたかった時期にモテなかった悔しさをそれなりに味わっている。だが、「モテない」の度合いは幸い性格を歪めるほどにはひどくなかった(と思っているが、どうだろうか?)。
その後「モテ」が生理的にそれほど切実でなくなってから、状況が少し改善した。従って、「モテない男」の気持ちはもともとよく分かるし、「モテる男」の気持ちもほんの少しだけ分かるようになったつもりでいる。
女性において「モテ」がどれくらい大切なのかは、実感としては分からない。だが、たぶん、男性に近いくらい重要な要素なのだろうと推測できる。
さまざまな動物の生態が紹介されるテレビ番組をよく見るのだが、生まれて、厳しい環境をくぐり抜けて運のいい個体が成長し、ほぼ生殖の相手を得るためにだけ競争して死んでいく。特に雄はそうだ。人間もこれに近いのではないか。
モテない男は幸せそうに見えない。
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仲間内の賞賛には高い価値がある!
人間の幸福感は「モテ」にかなり近い場所に根源があるらしいが、別の例を考えてみよう。
よくある疑問だが、「経済学部の最優秀に近い学生は、実業界に就職したら大いに稼げるだろうに、どうして経済学者を目指すことがあるのだろうか。それは、経済原理に反していないか?」。
論理の上では、効用関数は融通無碍なので「経済原理に反する」ということはないのだが、不思議な現象ではある。それは、「経済学の研究に加わっている自分と、仲間内からもらえる賞賛」に大きな価値があると感じるからだろう。
「フェラーリを一台貰うよりも、いい論文が一本書けて最高レベルの学術誌に掲載され、仲間に賞賛される方が遥かに嬉しい」と思う経済学者は少なくあるまい。
「仲間内の賞賛」は、大きな経済価値の期待値に勝る喜びなのだ。さて、「仲間内の賞賛」に価値が高いことは、経済学者の世界だけに限るわけではない。他の学問でもそうだろうし、各種の芸事やスポーツ、文学やアートの世界でも同様だ。
「私は、仲間の評価ではなく、自分自身の作品(研究)に満足しているので、他人の評価は自分の幸福感に関係ない」と言い張る人がいたら、「それは勘違いでしょう。もう少し素直に考えましょうよ」と言いたい。