SNSで「いいね!」を集めるのは、ただの自己顕示なのか?
それとも「承認欲求が強い」からでしょうか?
現代の私たちは、日常的に「承認欲求」という言葉を耳にします。
SNS上で自分の投稿に反応がほしい、フォロワーを増やしたい、誰かに認められたい――そんな思いは、ごく当たり前の感情に思えます。
ところが、この「承認欲求」という概念が本当に存在するのかと問われると、意外にも答えは複雑です。
実は、承認欲求という言葉が盛んに使われるようになったのはごく最近のことであり、その背後には人類史の闇とも言える「血塗られた歴史」が深く関係しているのです。
今回のコラムは、あえて「承認欲求は存在しない」というタイトルから、人類の狩猟採取時代にまでさかのぼり「仲間殺し」という驚くべき死因がいかに私たちの脳を変えてきたかを探っていきます。
実は、仲間に殺されるリスクを回避するために、私たちの脳は噂話や他者評価に過剰に敏感になり、それが現代のSNS環境と結びついて“承認欲求”や“異常な攻撃性”として表出しているのです。
なぜ人はSNSで自分のしたことを積極的にアピールし、誹謗中傷に熱中してしまうのか。
なぜSNS上での評価をこんなにも求めてしまうのか――その答えを知れば、あなたの「承認欲求」観が大きく変わるかもしれません。
目次
承認欲求は存在しない仲間殺しが人類にもたらした進化承認欲求は「脳の誤作動」であり、SNS上の異常な攻撃性も同じく誤作動承認欲求を知らない神様の物語
承認欲求は存在しない
承認欲求はSNS普及後に認知されるようになった
あなたは日常のなかで、「承認欲求」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
「SNSに疲れた」「いいね!が欲しい」「もっと自分をわかってほしい」など、私たちの周りには「承認欲求が強い人」という評価が溢れています。
もしかすると、「自分も承認欲求が強いかも……」と心当たりがある人もいるかもしれません。
ところが、この「承認欲求」という言葉が、実はごく最近になって日本や海外でも多用されるようになったものだと聞いたら、驚く方も多いのではないでしょうか。
もちろん「他者から認められたい」という概念自体は、古くから人間の営みのなかに存在します。
例えば、アルフレッド・アドラーの「劣等感と優越コンプレックス」や、マズローが唱えた「尊重(esteem)の欲求」など、学問の世界では何度も研究されてきました。
しかし、これらはもともと一部の専門家だけが使う高度な用語でした。
現代のように、一般人が日常会話やSNSで「承認欲求」というキーワードを当たり前のように使うのは、ここ数年~10年程度の新しい現象なのです。
しかしなぜこんなに急速に「承認欲求」という言葉が流行し、誰もが当たり前のように使う時代がやってきたのでしょうか?
今回のコラムのタイトルは「承認欲求は存在しない」という刺激的なものですが、決して単に「言葉だけ」を否定しようとしているわけではありません。
なぜ現代になって「承認欲求」という言葉がこれほど広まったのか――その背景には、実は人類が歩んできた“血塗られた歴史”が大きく関わっています。
人類の血塗られた歴史
話しを進める前に、私たち人類がたどってきた過去を振り返りたいと思います。
狩猟採取の時代、人類は小規模な集団(多くは数十~数百人)を単位として生活していましたが、近年の考古学や人類学の研究によって、そのような小さな規模の集団であっても、仲間同士での殺人率が非常に高かったことが、明らかになっています。
たとえばKeeley, L. H. (1996)らが発表した研究では、考古学的証拠から「先史時代の社会が決して平和ではなかった」ことを示し、狩猟採取民でも激しい争いや殺人が日常的に行われていた可能性を指摘しています。
またBowles, S. (2009)らが発表した研究ではさらに踏み込み、仲間殺しが人間の社会的行動や人間の進化そのものにも影響を与えた可能性について言及しています。
さらにいくつかの研究では仲間による殺人率は死因の15%にも上った可能性が示されています。
これらの研究が示唆するのは、人間の死亡要因において仲間による殺害が非常に大きいウェイトを占めており、それが進化の道筋にまで影響を与えていたことを示しています。
では「なぜそんなに人は人を殺していたのでしょうかか?」
主な要因には、縄張り争いや食料・資源の奪い合い、あるいは群れ内での序列・嫉妬などがあったと考えられます。
警察など犯罪者を捕らえる仕組みが存在しない社会では、殺人の動機を抑える足かせは現代社会に比べてずっと軽いものだったのでしょう。
この悲惨な歴史は農耕社会になっても引き継がれました。
普通ならば農耕によって食料が安定し、飢えの恐怖から解放されれば、人々はもう少し穏やかになるのではないか――と考えたくなるかもしれません。
しかし、考古学・人類学の知見は、むしろ農耕時代になって殺人率がさらに上昇した地域が少なくないことを示しています。
豊富な食料を蓄えるようになると、富や土地の所有をめぐる対立が生じ、組織化された暴力が増える方向に働いた可能性が指摘されているのです。
Wrangham, R., & Peterson, D. (1996)らの研究ではチンパンジーと人間社会の比較から、農耕の開始が集団の拡大と資源独占を促し、新たな形の暴力を助長するシナリオを論じています。
またPinker, S. (2011)らの研究でも、近代以降、長期的には暴力が減少しているという大局的見方を示しながらも、先史〜中世の段階では一部地域で非常に高い殺人率が継続していたことを多面的に分析しています。
研究によっては「条件によっては5人に1人が野生動物でも飢餓でもなく、仲間の手によって殺されていた」とする推定データも示されています。
もちろん地域や時代に差があるものの、人類史がいかに“血塗られた”ものであったかを想像するには十分な数字でしょう。
これらを総合すると、狩猟採取時代に高い殺人率を示した人類は、農耕時代の到来によっても必ずしも「殺し合い」をやめる方向には進まなかったことがわかります。
ここで、生物進化の一般的な原則を振り返ってみましょう。
一般的に生物は、その死因に適応して生き残るために進化します。
もしある生物種の最大の死因が「栄養不足」ならば、彼らは基礎代謝の低下や脂肪蓄積システムの効率化を進化させるかもしれません。
逆に主要な死因が「外敵に襲われること」ならば、分厚い皮膚、強固な骨格、または非常に速く走る脚などを獲得する方向に進化するでしょう。
つまり生物は、自分を多く殺すものから逃れるように形質を変化させ、生存率を高める傾向があるのです。
では、人類の場合はどうだったのでしょうか?
もしあ私たちの種族(人類)が、飢餓でもなく、猛獣でもなく、「仲間」によって殺されるリスクが高いという現実を突きつけられたら――いったいどんな進化を遂げるでしょうか?
次のページは、この問いかけに対する人類の答えとも言える進化の道筋を追いつつ、承認欲求の謎にも迫っていきたいと思います。
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仲間殺しが人類にもたらした進化
もし「仲間殺し」が主要な死因の1つであれば、私たち人類はどんな進化を遂げるのか?
私たちの体を見てわかるように、人類は分厚い皮膚や素早い脚を手に入れていないのはわかります。
代わりに私たちは「噂話や悪口の共有」という特殊な方法を発達させました。
単なるゴシップ好きが進化の結果とは信じがたいかもしれません。
ところが、霊長類学や進化心理学の研究からは、人間のゴシップ行動がサルの“毛づくろいに相当する“社会的な絆づくりに大きく寄与していたという見解が示されています。
たとえばDunbar, R. (2004)らの研究では、ゴシップは単なる悪口や興味本位の噂ではなく、集団内で誰が信用できるのか、誰が危険人物なのかを素早く把握するための「情報交換システム」だったと論じており、人間の会話のうち大部分(研究によっては約6~7割にも及ぶ)が、噂話や評判・他人の話題に費やされる可能性があることを示唆しています。
人間の高度な言語能力は情報交換や概念の形成のために進化してきた高尚なツールだと思われてきましたが、この比率をみれば、決してそのような目的が主眼ではなかったことがわかります。
(※もちろん言語には知的ツールとしての側面もありますが、それ以外の用途のほうに大きく情報量を割いている状態にあります)
では何のために人類はゴシップや悪口にここまで力を注ぐのでしょうか?
研究者たちは、ゴシップを共有することで「あいつは仲間を裏切りそうだ」「あの人は集団に貢献してくれる」といった情報がグループ内を素早く回り、排除すべき相手を決めたり、協力すべき相手を判断したりするメリットがあったと述べています。
これは直接的な武器で戦うよりも、周囲の合意を得ながら安全に相手を追い詰める戦略といえます。
狩猟採集社会では、食料資源や縄張りをめぐって、誰が裏切り者か、誰が敵に通じているかが死活問題でした。
ですがそれを正面きって戦うのはコストがかかりすぎます。
それに警察など存在しない狩猟採取時代と言えども、根回しも何もせず気に入らない相手を感情の赴くまま殺したとあっては、自分が危険人物とみなされてしまいます。
そのためリスクの高い単独犯を避けるために噂を広め賛同を得て、集団で排除するプロセスが進化したと考えられます。
ゴシップを巧みに使い、「あいつは危険人物だ」と周囲に信じ込ませれば、安全に排除を進められます。
簡単に言えば、噂と悪口を使って水面下で動くわけです。
そうすると場合によっては自分が手を下さなくても、噂に踊らされた誰かが代わりに「排除」を実行してくれるかもしれません。
こうした社会的繋がりや排除の手法は、人類の行動進化に大きく寄与しました。
戦闘能力や敏捷性のみならず、いかに賛同者を得るか、情報操作を行うかが生存に不可欠だったのです。
一方、仲間殺しが主要な死因となっている世界では、噂話や悪口の対処を上手くできない個体の遺伝子は排除されていきました。
結果として人類の脳は「仲間に殺されないためには常に噂話や悪口に注意を払う」ように進化することになります。
Lieberman, M. D. (2013)はその著書において、人間の脳が他者との関係や社会的つながりを非常に重視するように作られている事実を数多く示しています。
この著書では、赤ちゃんが言葉を話せない段階から、他者とのコミュニケーションや関係づくりに深く取り組むことに着目し、これは単なる好奇心ではなく、「群れの中で保護され、生存する」ための本能だと述べています。
人間は生まれた直後から仲間殺しから逃れるための「訓練」をはじめていたというわけです。
また著書では脳の大部分が社会的なつながりに敏感に反応すること指摘。
従来は高等な思考を司る領域こそ人間の核心と見なされがちでしたが、実際には社会的認知のためのシステムが思った以上に広範囲を占めているのです。
人間の脳もまた仲間殺しから逃れるため社会的つながりに敏感になるようにプログラムされていたということでしょう。
さらにLiebermanは、社会から排除されること”は脳にとって身体的痛みと同様に深刻なストレスになると主張します。
SNSなどで誹謗を受けたり無視されたりしたときに、まるで身体的傷害”のような苦痛を感じるのは、脳が「仲間外れ」を生存の危機と見なしているからです。
「では、人間はお互いの痛みを理解し、優しくなったのか?」といえば、必ずしもそうではありません。
多くの事例で証明されるように、私たちは「排除する側」に回ることで、自分への攻撃を避けようとする傾向も強く示します。いわゆる「いじめられるより、いじめる側に回ったほうが安全」という理屈です。
脳の配線を大規模にリプログラムして仲間殺しをしない聖者の集まりのような種に進化するよりも、殺されない側につく能力を進化させたほうが「安上がりかつ合理的」だったからです。
現代においても仲間外れにされる恐怖から、人間の脳は「むしろ率先して誰かを叩く」「噂で糾弾する」ことに悦びを感じるのは、狩猟採集の時代に、殺人の標的にならないために「どっち側につくか」が生死を左右していた名残とも言えるでしょう。
さらに脳科学的にも興味深い証拠があります。
いくつかの研究では、ゴシップが単なる情報交換で終わらず、脳内の報酬系(ドーパミン回路など)を刺激することが明らかになっている点です。
Feinberg, M., Willer, R., & Schultz, M. (2014)らの研究では、ゴシップ(噂話)と“仲間はずし”が協力行動を高めるメカニズムを実験的に示し、悪い噂を共有することが集団全体の秩序を維持するための進化的手段になり得ると主張しています。
またゴシップや他人の秘密を話すとき、人間の脳は快感をもたらす物質を放出しやすいという報告があります。
仲間殺しの多かった時代において、危険人物を特定する情報を交換することが、脳にとって“ご褒美になっていた可能性があるわけです。
こうした仕組みを考えれば、「なぜ人は悪口や他人の噂に引き寄せられるのか」「他人のスキャンダルを共有するとなぜ楽しく感じてしまうのか」も説明がつきます。
仲間に殺されないために必須の情報をやり取りできれば、脳がプラスの報酬を与えてくれるというわけです。
さらに最新の脳研究では、人間の脳の進化の原動力が他人との関係性を模索するために行われた可能性すら指摘しています。
私たちが“ぼんやりしているとき”に活性化するDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)が、実は他者や自己を思考するときに大きく働くことを示しています。
つまり何もしていないときであっても、人間の脳は自分と他者の関係を無意識に考え続けているのです。
「人間は厳しい自然環境を生き抜くために知能を発達させた」とよく言われますが、実は“仲間から攻撃されないための方策”のほうが知能進化において重要だったのかもしれません。
「人間はパンツを履いたサル」という比喩は有名ですが、いま話してきた観点からこの比喩を更新するとすれば、人間は「噂をするサル」あるいは「仲間を殺しまくるサル」と言っても過言ではないでしょう。
それほどまでに人類の進化を牽引した要素が「仲間殺しからどう逃れるか」に集約されているというのは、一種の恐怖を感じる事実でもあります。
なお余談ですが聖書に出てくる「知恵の実を食べた人間は、すぐに兄弟殺し(カインがアベルを殺害)を行った」という物語も、人類が知恵を得たと同時に仲間を殺すようになる過程を暗示しているようにも見えます。
もしこのエピソードが作者の思い付きの産物ではなく、知恵が芽生えたゆえに、仲間との争いが熾烈化し、殺人が連鎖するという人類進化を暗示していたとするなら……(ありえないことですが)足元が冷える思いをします。
最後に、この仲間殺しへの適応がどれほど具体的に脳を変えたかを示す指標として、ダンバー数に触れておきます。
ダンバー数という概念は、霊長類学者のロビン・ダンバーが提唱したもので、人間が安定した社会関係を維持できる人数の上限がおよそ150~200人程度だという仮説です。
これは、脳のネオコルテックス(新皮質)の大きさが、群れのメンバーを記憶し把握すると同時に、複雑な人間関係を処理する能力と相関しているという考え方に基づいています。
簡単に言えばチンパンジーよりも人類の群れが大きいのは、新皮質がより大きいからとなります。
人類の新皮質は非常に巨大なため、かなり大きな群れをつくることができます。
しかしそれでも限界があります。
人類でも、友人同士の付き合いや、誰が信頼できて誰が危険かといった情報を共有する際、150~200人を超える規模になると、一人ひとりの状況を正確に追いかけるのは脳のキャパシティ的に難しくなってしまうことが知られています。
この数に決まった背景のもう1つには、人類の進化史のほぼ99%を占めるといわれる狩猟採取時代には、実際に集団規模が150~200人を大きく超えることはなかったのではないかという推測があります。
狩猟採取の生活では、あまりに大きな集団を維持するには食料を確保するのも移動するのも不利になるため、一つの群れが150~200人程度に落ち着いたと考えられるのです。
このように考えると、ダンバー数が示す“脳の限界”は、人類が長い歴史の中で培ってきた社会的な認知能力と深く結びついているといえます。
また、ダンバー自身は150~200人という目安の周囲に、さらに親密度ごとに分かれた複数の階層があると主張しています。
たとえば、親密に連絡を取り合うのは5人程度(家族・親友クラス)、少し距離があるが深い関係を継続できるのは15人程度、なんとか顔を覚え、時々連絡をとるのは50人程度、名前と顔が一致し、ある程度の情報を共有できるのは150人程度、その先の500人・1500人という段階には「知人」「名前だけ知っている」などの薄い層が続く……といった具合に、脳の処理能力によってレベル別にグループが区切られている、と言われます。
このダンバー数に関してはSNS上の関係も当てはまっており、人間がSNS上で活発な交流を維持できる範囲もまた150~200人に限られていることが報告されています。
もちろん数値の限界値には個人差があります。
しかしどんなにコミュ力に自信がある人でも「親密に連絡を取り合う1万人の親友」や「性格を完全に把握できる10万人の友達」を持つことはできません。
たとえ時間が無限にあったとしても、脳の能力的に不可能なのです。
さて、ここまでは人間の脳が“噂話”や“他者評価”を最優先する仕組みを持つに至った背景を見てきました。
仲間殺しから逃れるため、そして周囲と“噂”を介して連携するため――その進化が脳のデフォルト機能を形作っているのです。
ところが現代、私たちの目の前に出現したSNSは、数百万~数億人レベルの繋がりを一気に実現させてしまいました。
150~200人の群れを前提に設計された私たちの脳が、この“巨大な社会ネットワーク”と出会うと、何が起こるのか?
いよいよ承認欲求の正体が暴かれます。