1998年に消滅した世界的スキーブランド「KÄSTLE」復活から日本上陸までの軌跡

かつてワールドカップレースを転戦し、2018年から全日本アルペンチームのヘッドコーチとして再び雪上へ。翌年オーストリア・インスブルックに移住し、現在は日本総代理店としてケスレスキーを展開している浦木健太(うらきけんた)。海外からのグローバルな視点で、ヨーロッパのスノーカルチャーやギア・技術など、最新情報や興味深い話題をお届けしていく。今回は自身が携わっているケスレスキーについてだ。

KÄSTLEとの再会

2018年にアルペンスキーナショナルチームのヘッドコーチを引き受け、翌2019年に全日本スキー連盟の拠点構築と日本アルペン強化のために、家族で米国ハワイからオーストリアのインスブルックに移住した。しかし、北京オリンピックが終わった2022年4月、アルペン経営陣の判断によりヘッドコーチ解任。これにより、家族を抱えながら、オーストリア在住・無職となった。これから何をして生活していこうか、考え、悩み、精神的に苦しい時間を過ごしていた。そうした状況で頭から離れなかったのがオーストリアのスキーブランド「KÄSTLE/ケスレ」の存在だった。

ケスレは、私自身が現役選手のときに使用していた思い入れのあるスキーブランド。高校卒業と同時に、当時のケスレ日本総代理店だった日本ノルディカ株式会社に入社し、ケスレスキーと共にワールドカップや世界選手権を戦ってきた。しかし1998年にケスレブランドはノルディカに吸収される形で消滅し、私とのパートナーシップも強制終了となった。

それから20年以上が経過した頃、ヨーロッパのスキー場で懐かしいロゴをみつけた。それがケスレのスキーだった。久しぶりにみたケスレにテンションが上がり、調べてみると、国際市場復帰に向けて動き出して間もないタイミングだったのだ。

ケスレと共に歩んだ選手生活。20歳で初めて出場したワールドカップでも使用マテリアルはケスレだった

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ケスレの歴史…消滅から復活まで

そもそもケスレとはどんなブランドか。1924年、スイス国境に隣接したオーストリアのホヘネムスで創業。1950年以降、トニー・ザイラーやピルミン・ツルブリッゲンなどの活躍で、ワールドカップの総合タイトルに加え、オリンピックや世界選手権で130以上のメダルを獲得した。 アルペンスキーのオリンピックで、唯一の日本人メダリスト猪谷千春氏が1956年コルチナダンペッツォオリンピックでのメダル獲得時に使用していたスキーもケスレだった。

1991年にイタリアのベネトン社に買収された以降もケスレ使用選手の活躍は続いたが、1998年の長野オリンピックを最後にケスレブランドはノルディカに吸収される形で消滅し、関係者を驚かせた。

ケスレでワールドカップ40勝、総合優勝4回を達成したスイスのピルミン・ツルブリッゲン ©Kästle GmbH

それから10数年が経った頃、オーストリアのフォアアールベルグ州の実業家がケスレブランド復活に向けて動き出し、2015年には本社機能が再稼働。これまでにアルペンスキーで実績を証明してきたスキー製造技術に加え、ブランドアイコンとなるホローテック(すべのスキー先端にある楕円形・特許取得済みの振動吸収機能)などの新しいテクノロジーを加えて再出発することとなった。

2018年には、チェコのコンシルスポーツがケスレの株式過半数を取得。それにより、ケスレは製品カテゴリーを増やし、グローバル市場に向けて完全復活を果たすこととなった。

ケスレはすべてのスキーにホローテックを搭載。スキー滑走時の振動を最大で30%軽減する ©Kästle GmbH