3. 略奪愛でも幸せにやっている人たちだっていますよね?
そうですね。確かにいます。
そのまま結婚して子供を授かって、幸せそうに暮らしているカップルが世間にたくさんいることは事実です。
ですが、略奪愛をしたということは、一人の女の子を「踏み台」にして二人の幸福があるということですよね。それは許されることでしょうか。
人はみな善を尽くして生きる義務があります。快楽を優先して生きたり、何も深く考えずにただ楽なほう・欲しいほうを選んで生きた人は、そうしたことによって誰かを傷つけたり、不幸に陥れたことを自覚しません。
でも、ちゃんと人生の帳簿、バランスシートに記されているのです。「〇〇さんを不幸にした」「××さんの幸せを壊した」というようにです。
そして、それは因果応報で巡り巡って彼らに不幸をもたらすシステムになっており、言ってみれば、略奪愛をした人々は「負の支払請求書」を持っていることと同じなんです。
いつかは、苦しむ。今は幸せでも、です。
昔から「バチが当たる」とか「情けは人のためならず」とかよく言いますよね。
ちょっと怖い話だけど、人の生ってそういうシステムで成り立っていると思いませんか?
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4. そこまで言われても、諦められそうにありません。 だって好きになっちゃったから。
冷静になるしかありません
こればかりは、「愛」ではなく「執着」ですよ、としか言えません。「好きになっちゃった」のですから、何かのご縁が彼とあったのは事実でしょう。ですが、彼と二人で相当数の年月を共にしたわけでもないのに、「好き」はあっても「愛」はまずありません。
好きになってしまった、諦められないというのなら、自然と心が離れるまで片思いを続けることもアリです。
片思いは自由ですし、誰も不幸にしませんね。でも、あなた自身は幸せでしょうか。
執着とか煩悩という言葉は聞きなれないかも知れませんが、これも人間の持つ、それも古代から人間とは切っても切れない苦しみの一種です。欲しいものが手に入らないと余計に欲しくなる心理が執着です。
もっと心を高い位置に置いて、俗な浮世から魂を解放して、自分を労わってあげることこそ、大きな意味での「愛」だと思うのです。
愛は何も人に与えるだけではありません。自分に向けて大きな愛を持っていないと、他人にも愛を与えることなんてできません。