手法の違い
―― 歴史・時代小説と、ご自身の体験をもとにした現代小説と、執筆にあたって違いなどは感じましたか。
意外に聞こえるかもしれませんが、違いはあまり感じませんでした。なぜかというと、事実をベースとし、大筋は変えずに肉づけして小説として成立させるのは、歴史小説の書き方と同じなんですね。事実が七割くらいで三割が脚色という、その配分も歴史小説に近いなと感じました。
―― 事実と脚色の配分をどうするかは作者が決めることですから、砂原さんはご自身の歴史小説と同じスタイルでこの作品を書かれたとも言えますね。
はい。歴史ものと現代ものという違いはありますが、結局、デビュー前から小説づくりの作法は変わってないのかもしれません。
―― 同じ事実であっても、史実はご自身が体験していないのに対し、この作品は自ら体験されたことがベースになっています。
動かせない事実という意味では同じかなと思います。たとえば関ヶ原の合戦が起きた日付は確定していて変えられません。歴史小説では文献的に間違いのないところはそれにしたがい、資料的に否定されない部分で脚色を加えていくわけです。
同じように、『冬と瓦礫』でも、震災や被災の状況に関しては、基本的にそのまま書いています。最初の執筆当時、新聞記事などの資料をかなりそろえて、逐一チェックしながら書きました。今回、書籍化するにあたって再確認しましたが、ほぼ間違いがなかったので安心しましたね。
―― 報道された事実はもちろん、主人公が歩いた距離や時間なども、リアルかつ正確に書かれているということですね。
ええ。震災発生から三日目、東京から駆けつけた主人公が何十キロもの水や食べ物を背負って西宮 ( にしのみやから三宮 ( さんのみやまで歩いたルートは、当時私が実際にたどった道なんです。そのときはとにかく歩くことだけが百パーセントになっていて、悲しさや衝撃を感じる余裕もありませんでした。
実は震災から十五年近く経って執筆するにあたり、同じルートを歩き直しました。そうしないとこの作品が噓になると思ったんです。西宮から三宮まではもちろん、ポートアイランドへも歩いて渡ったし、神戸市の北部に迂回して電車に乗るルートなど全部たどり直したので、描写にも生かされているのではないかと思います。
―― 十年以上経って同じ道を歩いてみて、何か気づきはありましたか。
かなり変わったなと感じました。震災の痕 ( あとはあまり見えないようになっていた。震災後に建築されたビルは雰囲気で分かるのですが、私が知っていた神戸はやはりなくなってしまったんだなという物悲しさを感じました。
―― 今回、あらためてこの作品に向き合ってどう感じましたか。
違和感はありませんでした。ちゃんと小説的につくられていると感じたので、細かな点は別として、エピソードやシーンの追加、作品の根幹に関わるような手直しはしていません。デビュー前ではありますが、この時点で作家としての手法や技量はほぼ出来上がっていたんだなと思いました。
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自分との距離
―― 歴史小説と手法としては変わらないというお話でしたが、一方で特別な作品であるようにも感じられます。
どの作品にも魂を込めているつもりですし、どれもイコール自分ではあるわけですが、書き手と作品世界の距離が一番近いのは確かですね。
この作品は書き上げたあと純文学系の文学賞に応募して、一次は通過したのですが二次には残らなかったんです。本来自分が書こうと思っていたジャンルではないはずなのに、その落胆や絶望感がとても深くて、数年間、書けなくなりました。やはり力の入れ方や魂の込め方が、それぐらいの強度だったといいますか、まさに渾身の作品だったんですね。
―― 書けない期間というのは、具体的にどのくらい続いたのでしょうか。
五、六年かかりました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、そのときは落ちるところまで落ちたという感覚がありましたね。でも、人間落ちるところまで落ちたら上がるしかなくなる。時間を経て考えられる余地が生じてくると、このままでいいのかと自分へ問うようになり、やはり作家と呼ばれるものの末席に名を連ねてから死んでいきたいと思って、小説講座に通い始めました。当時、フリーでの仕事がとても忙しかったので、無理にでも書くという仕組みが必要だと思ったんですね。
―― そこから再び作家をめざして動きだしたのですね。
はい。小説講座で最初に書いた作品が、先ほど話に出たデビュー短編「いのちがけ」になりました。
―― 経緯をうかがうと、デビュー前とはいえ、『冬と瓦礫』は、作家の転機という意味でも重要な作品になりますね。
本当にそうなんです。その時点で全部やり切ったという手ごたえがあって、書き終えたあと、資料なども処分しました。もうこれ以上書くことはないと思ったんですね。そういう意味でも本当に魂を込め切った作品と言いますか、当時の自分の思いも技術も全部注ぎ込んだものでした。
―― 執筆にかけた時間はどのくらいでしたか。
一年弱でしょうか。二〇〇八年一月に桜庭一樹さんが『私の男』で直木賞を受賞されたことになぜか刺激を受けて。震災から十三年ということと、桜庭さんの受賞が同日の紙面に載ったのは確かなんですが、なぜ桜庭さんだったのかは我ながらよく分からないですね。自分とは作風が正反対だと感じるのですが、それゆえにか、桜庭さんの小説には魅力を感じてずっと読んでいます。
―― 資料とは別に、この震災を扱ったほかの作品はご覧になりましたか。
それはしませんでした。ただ編集者時代に、阪神・淡路大震災をテーマにした女流新人賞受賞作を担当したことはありました。岩橋昌美さんの『空を失くした日』(一九九六)という作品で、優れた小説だったと思います。
―― ご執筆までの十五年という歳月には、どんな意味があったのでしょうか。
個人的な感覚ですが、書き始めるのに十五年という時間が必要だったのだろうと思います。震災直後はもちろんですが、十年後でも小説にするには早いと感じていたので。震災から三十年になりますが、そこにもやはり節目を感じ、発表を決意しました。私はNHKの連続テレビ小説「おかえりモネ」(二〇二一)がとても好きだったんですが、東日本大震災のとき、当事者になれなかった少女が主人公なんです。今回出版に至ったのは、「おかえりモネ」に背中を押されたところも大きいですね。やはり、こういうテーマはあっていいんだ、と勇気をもらいました。