田中角栄(首相官邸HPより)

前回、田中角栄には意外な「健康法」があり、口笛を吹いてよく鳴る場合は体調よし、鳴りが悪いと体調イマイチとなり、これが当たると自負していた逸話を記した。

永田町で恐いものなし、絶対権力者だった男も、健康にはなかなか気を使っていたのである。

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実は、田中はもう一つの健康法として、美顔術を兼ねた“全身美容”にも通っていた。

ロッキード裁判さなかの昭和55(1980)年10月、国会議事堂の近くにあったメンズ・クリニックに現れ、当時、その院長を務めていた女史は次のように語っていた。

「田中先生は都合10回ほどおいでになっています。先生はモチ肌で、年齢より5、6歳は体がお若い。『あと3キロは痩せにゃならん。(美顔マッサージと顔面パックの施術を受けて)これはいいね』とおっしゃっていました」

田中の“コース”は、まず赤外線付きサウナで汗を流し、その後、トレーニング室に入って低周波エレクトロニクスの器具を装着してぜい肉を落とす。

このあたりは、女性のための美容エステと同じようである。

その次に黒い漢方薬を塗っての美顔マッサージと顔面パックで、最後は青汁を1杯飲んで終わるのだった。

さすがの角さんもロッキード裁判で世論の厳しい風を受け、日々お疲れ、そのための“オーバーホール”のようであった。

昭和47(1972)年1月と言えば、同年7月の自民党総裁選で勃発する田中と福田赳夫の「角福戦争」が、水面下で進行し始めた頃である。

時の佐藤栄作首相はこのときの訪米に際し、通産大臣だった田中と、外務大臣だった福田の2人をあえて同行させた。

佐藤は米カリフォルニア州サン・クレメンテでの日米首脳会談の場を借り、政権を支える「竜虎」でもあった両人に、刺激的な争いを避けさせる目論見があったという。

結局、米国での“握手”は成らなかったが、じつは訪米最終日のロサンゼルスで、こんな秘話があった。

無修正の艶映画には「ワシは行かん!」

「記者団はストリップ劇場でロスの夜を楽しんでいたが、艶技“泡踊り”が佳境に入った頃、なんと田中、福田の両雄が秘書官らを引き連れて劇場に入ってきたのです。ご両人、舞台の最前列に腰を下ろしましてね、踊り子が激しく動くたびに泡が飛んでくるので、盛んに首を振ってよけていた。そのあとロスにいた田中の知人が、本場の修正なし艶映画に誘ったところ、福田は『行こう、行こう』だったが、田中は『ワシは行かん。見たくない』で、結局これは実現しなかった。田中には女性問題もあったが、あとで記者たちからは、『田中は単なるスケベではないようだ』という声がしきりだった」

田中は、行政改革に熱心な政治家でもあった。

持ち前の「発想の転換」を縦横に駆使し、例えば、役所の課長を3倍に増やしたらどうか、という提言もしていた。

これは単に人減らしの「行革」だけでは下積みの者に不満が残るだけで、これらを課長に抜擢すれば給料も上がり、皆、喜んで仕事をやるので何倍も効率が上がるという発想なのだ。

昭和32(1957)年、田中は39歳で郵政大臣に就任したとき、早くもこうした発想を実現させていた。

電電公社(現在のNTTグループの前身)に、なかなか仕事のできる50歳近い女性職員がいた。

田中は省内人事の際、あえてこの女性を課長の椅子にすわらせたのである。

当時は官公庁における女性の昇進が難しかっただけに、公社内では大きな話題になった。

と同時に、他の女性職員たちが一様にやる気を増した。

ために、すべからく公社職員の志気、効率は大いにアップしたのである。

今日すでに一般化している「キャリア・ウーマン」の生みの親は、じつは、いまから70年近く前の田中だったという話である。

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秘書の早坂茂三には「すまん」を連発

田中が地方へ出向く際、秘書の早坂茂三(のちに政治評論家)がしばしば同行していたが、某日、田中とこの早坂が、旅先で一緒の風呂に入る機会があった。

その際、こんな会話があったと早坂が言っていた。

田中に「君もずいぶんと頭が白くなったなぁ」と言われ、早坂が苦笑しながら「オヤジさんがあまり苦労をかけるからです」と返すと、田中はしきりに「すまん。すまんなぁ」を連発していたそうである。

この早坂は、田中の百数十回に及んだロッキード裁判の公判傍聴に通い続け、小沢一郎ともども、どんなに風邪気味でも1日たりとも休んだことがなかったのだった。

「沖縄返還」「ノーベル平和賞」の佐藤栄作、「戦後政治の総決算」「行革」の中曽根康弘、両首相はその功績と長期政権を果たしたことから、栄典制度における最高位の「大勲位」を受賞している。

一方、「日中国交正常化」をやり遂げた田中は、陸軍の盛岡騎兵第三旅団第二十四連隊第一中隊の満州勤務時代に、上等兵として「支那事変ニ於ケル功ニヨリ」受賞した勲八等瑞宝章だけである。

これは金脈・女性問題での首相退陣、ロッキード事件の影響によるものであった。

ちなみに、この勲章は功あった“緑のおばさん”が受賞するものと、ほぼ同じだったのである。

田中は「日の出の勢いの幹事長」と呼ばれた昭和40年代に、こう言ったことがあった。

「野党は政策で自民党を倒すことは、絶対できない。自民党内閣が倒れるときはズバリ、汚職。これ以外は見当たらない」

もとより「政治とカネ」の不祥事を言っている。

自民党はいま、その問題で大揺れ、土俵際にある。

田中の“炯眼”は当たるか否か。

(本文中敬称略/次回は三木武夫)

「週刊実話」1月23日号より

小林吉弥(こばやし・きちや)
政治評論家。早稲田大学卒。半世紀を超える永田町取材歴を通じて、抜群の確度を誇る政局・選挙分析に定評がある。最近刊に『田中角栄名言集』(幻冬舎)、『戦後総理36人の採点表』(ビジネス社)などがある。