「韓国の小説家ハン・ガンさんがノーベル文学賞受賞!」ニュースが駆け巡ったのは2024年秋のこと。アジア人女性・韓国人として初の受賞となりました。日本訳も複数出版されているハン・ガン作品ですが、「最初に読むならばこれ!」を提案させていただきます。
アジア人女性・韓国人として初のノーベル文学賞受賞
「過去のトラウマに立ち向かい、人間の命のもろさをあらわにする強烈な詩的散文」
ノーベル文学賞選考委員会は、2024年10月の受賞作発表の際にハン・ガン作品をそう称しました。韓国の光州事件や済州島での弾圧事件といった政治事件、伝統的な家父長制への抵抗など社会派なテーマを多く取り上げ、人や社会のもつ暴力性を真摯に見つめる透徹したまなざしが印象的です。
1970年に韓国光州市で生まれたハン・ガンさんは、父と兄も執筆活動している作家一族の出身。「韓国の芥川賞」とも呼ばれる李箱文学賞をはじめとして、2016年にはマン・ブッカー賞も受賞し、世界中から注目される小説家の一人とされていました。
日本国内では小説だけでなく、エッセイや詩集も日本語訳が刊行されており、近年の韓国文学ブームもあってか、ノーベル文学賞受賞発表後は多くの書店・オンライン書店にて著書の在庫切れが相次いだようです。
受賞発表から約3か月。書店の店頭に既刊本が積まれはじめたこのタイミングで、「ハン・ガン作品の中から、最初の一冊として読むならば?」という疑問に(あくまで一案として)答えてみたいと思います。
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社会派テーマと詩情あふれる淡麗な文章
まずは、ハン・ガン作品群の全体像解説からはじめましょう。
ハン・ガン作品といえば、ノーベル文学賞選考委員会がまさに言い表した通り「暴力的で非情なトラウマとの再会」と「詩的な表現」というギャップの大きい2つの特徴が挙げられます。
資料が集まって、その輪郭がはっきりしてきたある時点から、自分が変形していくのを感じたよ。人間が人間に何をしようが、もう驚きそうにない状態……心臓の奥で何かがもう毀損されていて、げっそりとえぐられたそこから滲んで出てくる血はもう赤くもないし、ほとばしることもなくて、ぼろぼろになったその切断面で、ただ諦念によってだけ止められる痛みが点滅する……――『別れを告げない』より
1980年の光州事件(民主化を求める市民や学生を軍が武力弾圧)で殺害された15歳の少年を主人公にした『少年がくる』、1948年の済州島4・3事件(蜂起した島民を軍が村ごと虐殺)を取りあげた『別れを告げない』でも、人間に潜む底なしの残虐性を描いて見せたハン・ガンさん。
しかしグロテスク一辺倒にはならず、わざとらしくドラマティックに歌い上げるわけでもなく、ただひたすら淡々としてほのかに光るような文章は、詩人としてキャリアをスタートさせたハン・ガンさん特有の詩的感性によるものでしょう。
日本語で唯一翻訳されている詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』を読めば、彼女の言葉と表現力の源泉が見えてくるはず。巻末に収められた斎藤真理子さんときむふなさん2人による翻訳者対談も、ハン・ガン・ワールドを読み解く絶好のガイドとして必読です。
そして、古典ギリシャ語を教える講師と失語症の生徒の邂逅を描いた長編小説『ギリシャ語の時間』、親しい人の死や病気など苦しみを抱える人々が登場する短編小説『回復する人間』のように、人間がそれぞれ背負っている「痛み」を丹念に描く物語たちもあります。
一方、『すべての、白いものたちの』や『そっと 静かに』といったエッセイ(またはエッセイと散文の間のような作品)では、ハン・ガンさん自身の思い出や感情が一つ一つ丁寧に選ばれた言葉ではかなく語られ、いつもまぶしそうな顔をしている著者近影の表情が少しずつくっきりと立ち上がってくるような気がします。