「初めてのハン・ガン」おすすめは『菜食主義者』
一つ一つ作品の魅力を語っていると言葉が尽きないのですが、「初めてのハン・ガン」としておすすめしたいのはずばり、『菜食主義者』。
『菜食主義者』(ハン・ガン著、きむ ふな訳/クオン)
本書は、2007年に発表された連作短編小説。ある日突然肉食を拒否するようになった女性ヨンヘをめぐる、夫・義兄・姉の3人の語りで構成されています。
わたしがどうやって知ったかわかる? 夢の中でね、お姉さん、わたしが逆立ちをしたら、わたしの体から葉っぱが出て、手から根が生えて……土の中に根を下ろしたの。果てしなく、果てしなく……股から花が咲こうとしたので脚を広げたら、ぱっと広げたら……。――『菜食主義者』より
肉食を絶ち、徐々に食べることそのものを拒否し始めたヨンヘになんとか食事をとらせようとする家族たち。理由を聞いても「夢を見たから」の一点張りで、ついには精神病院に入ることになったヨンヘは、点滴などの治療に激しく抵抗します。ついには肉がまったくない身体になったヨンヘの真意が分からず詰め寄る姉に、ヨンへは「私は木になるの」と無邪気な笑顔を見せます。
日本よりも家父長制の強い韓国において家族との繋がりを拒絶し、社会性を完全に断ち切り、最終的には自分の動物性そのものを排除しようとするヨンへ。
ヨンへの変化に戸惑い怒り、切り離すように彼女を捨てる夫。奇矯な姿となったヨンヘに強烈に心惹かれてしまう義兄。そして、夫とヨンへの衝撃的なシーンを目撃してもなお、ヨンヘを見捨てられない姉。
3人がそれぞれヨンヘを見つめる目には欲望に記憶、そしてファンタジーが入り混じります。読み進めるうちに、ハン・ガンさんのふるう細く鋭い彫刻刀によって「人間を人間たらしめているものは何か」が徐々に浮き彫りになっていくようです。
現実的なタイプの語り手を含めて複数の視点が交錯すること、「食べる」「食べない」という人間共通の欲望を取りあげていることから、初めてハン・ガン世界に触れる読者にとっても読みやすい物語ではないでしょうか。同時に、ハン・ガンさんが創作活動を通じて扱おうとする「トラウマとの再会」「痛みの直視」というテーマと、淡麗で安らかな文章もしっかり味わうことができる一冊です。
人間性の深淵を見つめる、厳しさと哀惜をたたえた視線。世界が注目するハン・ガンさんの世界に一歩踏み入れる、ささやかな参考になれば幸いです。