掃部助久国筆『真如堂縁起絵巻』、ここで描かれている応仁の乱は戦国時代の始まりと言われている / credit:wikipedia
室町時代は近年映画や小説で取り上げられているように、アナーキーな要素の強い時代として知られています。
そのようなこともあって当時の人々は、現代の私たちからすれば到底信じられないような行動をしばしば取っているのです。
果たして室町時代の人々はどのような行為規範を持っていたのでしょうか?
この記事では室町時代の人々の行為規範と、それに付随する様々な慣習と事例を紹介していきます。
なおこの研究は、清水克行(2004)『室町時代の都市生活と法慣習』早稲田大学大学院文学研究科博士論文に詳細が書かれています。
目次
他の幕府と比べて圧倒的に弱かった室町幕府呪術的な裁判、没落した者には人権なし被害者ファーストだった室町時代の法慣習
他の幕府と比べて圧倒的に弱かった室町幕府
絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)、尊氏のその強力なカリスマとは対照的に室町幕府の力はそこまで強くなかった / credit:wikipedia
日本史の区分上は鎌倉幕府と江戸幕府の間に室町幕府があるということもあり、室町時代のことを鎌倉時代や江戸時代のようにキッチリとした統治が行われていた時代と考える人もいるかもしれません。
しかし室町幕府は、他2つの幕府のようにキッチリとした統治を行っていた期間は非常に短く、そのほとんどが某漫画の世紀末世界のようでした。
室町幕府が成立した年は足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武式目を制定した1336年、もしくは尊氏が征夷大将軍に任命された1338年と言われています。
しかし当時は様々な事情により朝廷が二つの系統に分かれており、その系統から交互に天皇が即位する慣習が取られていたのです。
やがてこの慣習は足利尊氏と後醍醐天皇の対立によって最悪の形で破局を迎え、足利尊氏らが支持する北朝と後醍醐天皇らが率いる南朝の2つの朝廷が並立する時代になったのです。
このような時代において南朝に従う武士たちが足利家の言うことなど聞くはずもなく、3代将軍の義満によって南北朝が統一される1392年まで室町幕府は全国の武士を従えることができませんでした。
また室町幕府が歴史上滅亡した年は15代将軍義昭が織田信長によって京から追放された1573年とされますが、実際のところ1467年から1477年まで続いた応仁の乱によって室町幕府の権威は完全に失墜していました。
この応仁の乱は足利家の後継者争いを原因として起こったもので、これを引き金に他の一族も後継者争いを引き起こし、最終的には室町幕府の主要大名家の多くが分裂して戦う大戦争に発展したのです。
さらに応仁の乱は惰性的に戦闘を続けたこともあって明確な勝者もなければ敗者もなく、ただただ室町幕府の体力を削っただけの争いでした。
応仁の乱後の100年間も室町幕府は存続していたものの、実態は京周辺を統治する一地方勢力や戦国大名への権威付け機関であり、とても武家の棟梁とは言えない代物でした。
さらに南北朝統一から応仁の乱の間の75年間も日本各地で反乱や内輪揉めが相次ぎ、室町幕府の権威は鎌倉幕府や江戸幕府に比べてはるかに弱かったのです。
そのため室町幕府は他の政権が行ったような殺生禁止令や人身売買禁止令などといった倫理的な統制令を出すこともできず、既存の法慣習や民間習俗に則って統治を行っていました。
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呪術的な裁判、没落した者には人権なし
室町時代は沸騰したお湯に手を入れて有罪か無罪かを決める裁判が行われていた / credit:pixabay
それでは室町時代において、具体的にはどのような法慣習が取られていたのでしょうか?
例えば裁判の面では、熱湯に手を入れてその火傷具合で有罪か無罪かを決める湯起請(ゆぎしょう)というものが行われるようになりました。
なおこのような裁判は戦国時代に入るとさらにヒートアップし、焼かれた鉄を持って神棚まで持っていく行為の成否で有罪か無罪かを決める火起請(ひぎしょう)というものが行われるようになったのです。
また幕府や朝廷が金融業者などに対して債権を放棄するように命令する徳政令が行われるようになり、徳政令を求める一揆も起こるようになりました。
徳政令を出すと経済に大きな影響があるということもあり、幕府は当初徳政令にかなり消極的であったものの、1454年に分一徳政令(ぶいちとくせいれい、債務者が債務額の1割を幕府に払ったら債務がチャラになる、一方債権者が債務額の1割を幕府に払ったら債権が保持される)が出されると、幕府は財政再建のために徳政令を乱発するようになったのです。
さらに徳政令を求める一揆だけでは飽き足らず、力ずくで相手との売買契約を無理やり破棄させる私徳政(しとくせい)を行う一揆も行われるようになりました。
この私徳政については幕府も問題にしており、私徳政の一揆に対して軍勢を仕向けて鎮圧したこともあるものの、鎮圧に失敗することも多々あり、私徳政を追認することさえありました。
さらに合戦に負けて逃げ延びている武士や政治的に失脚したもの、流罪を言い渡されたものに関しては、集団リンチを行って殺害したとしても罪に問われることはありませんでした。
これは当時の人々が落ち武者を始めとする没落した人間には文字通り人権がなく、これらの人々から財産や命を奪ったとしても何も問題はないと考えていたからです。
そのため室町時代において流罪は実質的には死刑として機能しており、数年後に赦免する前提で流罪を言い渡す時はかなり周到に用意をして流人の身の安全を確保しなければなりませんでした。
加えて室町時代は家の概念も今とは大きく異なっており、当時の家は、単なる物理的な住まい以上の意味を持っていました。
一度人が家に「駆け込む」と、家の主にはその人間を保護する義務が生じるというものであり、それは初対面の人物であっても例外ではありません。
この義務感は絶対的で、室町幕府すらも安易に介入できないほどの強固な「排他的宇宙」を形成していたのです。
この考えは一見すると人情に溢れるものに聞こえますが、裏を返せば「家に駆けこんだ人間は下人として扱っても問題ない」というものであり、何も知らずに他人の家に宿泊した女性がその家の主人から下人扱いされるというトラブルが起こったりしています。
他にも、土地の所有権をめぐる騒動もまた中世の奇怪さを物語ります。
「押蒔き」や「押植え」という名の行為は、争い中の土地に勝手に作物を植えて支配権を主張するというものでした。
これを放置すれば、作物が根を張るように支配も固定化されてしまいます。
そのため、土地の正当な所有者はすぐさま田畑を耕し返す必要がありました。
「耕し返さなければすべてを奪われる」、これが中世の論理なのです。