奈良県葛城市に位置する當麻寺の金剛力士のうち、阿形像頭部に営巣した二ホンミツバチ / credit: 當麻寺 護念院

奈良県葛城市に位置する當麻寺(たいまでら)。推古天皇20年(612年)創建とされる説もある古刹です。

実際には7世紀末頃に建立された当麻氏の氏寺と言われていますが、古いことに変わりはありません。この寺は仁王門に金剛力士立像が祀られています。

金剛力士とは仁王様とも呼ばれる仏教のガーディアン的な守り神の仏像で阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体でワンセット。「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉の「阿吽」です。

仁王像のうち、事もあろうに吽形像の頭内部に二ホンミツバチが住み着いたため、ちょっとした騒ぎになりました。

二ホンミツバチは絶滅危惧種として知られる日本固有のミツバチです。

自然保護の観点だけでなく、お寺では殺生になるため駆除できず、結果的に見守り続けて年月が過ぎていき、阿形像は自分に営巣した二ホンミツバチのガーディアンにもなっていました。

まさか、仁王像を壊してハチミツをとろうという罰当たりな人はいなかったからです。

二ホンミツバチが阿形像に守られているその間、参拝客が刺されないかの心配や像の汚損もあって2021年5月26日、決心した當麻寺と當麻寺のある自治体、葛城市はついに動きました。

仁王像を修復するという名目のもと、ハチは駆除ではなく引っ越しをさせて巣は取り除き、ハチの巣作りで汚損した吽形像を修復することにしたのです。

しかし、ハチはいったいなぜ、よりによって仏像の内部に巣作りをしたのでしょう。

まずは二ホンミツバチを呼び込んでしまった木彫仏像を、その構造から読み解いてみましょう。

目次

天平時代、仏像は国家事業として制作された木彫の仏像は一木造から寄木造へ発展した二ホンミツバチはどうして仏像内に巣を作ったのか

天平時代、仏像は国家事業として制作された

日本において、奈良時代の天平年間は仏教が他国から入ってきただけでなく、仏教建築、仏教美術が根付いた時代でした。

天平時代とは奈良遷都の710年から長岡京へ遷都されるまでの749年までを差します。

当時の寺院建築について、伽藍(がらん)配置という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは建物の配置の様式を現す言葉で、いくつかの種類がありますが、メインとなるのは本尊を安置した金堂と仏舎利を収めた塔です。

天平時代以前は塔が礼拝の対象でした。塔には仏舎利が収められていることもあり、崇拝の対象だったからです。


法隆寺の伽藍配置。ひとつの金堂に対して塔がひとつのシンプルな構成 / credit: Wikimedia Commons

それが天平時代には金堂がより重視されるようになりました。塔よりも、実際に目の前にある仏像が礼拝の対象となったためです。

仏教が国教とされ、仏教建築や仏像制作に関わる技能を持つ人は国家公務員として雇用されました。仏像の出来栄えは重要視され、仏師は仏像の表現により気を配るようになりました。

現存する国宝級の仏像は、それだけハイレベルな仏師が国家公務員として仏像を制作していたことも重要な要因です。

仏師たちは仏像のリアリティを追求するため、脱活乾漆(だっかつかんしつ)の技法で仏像を多く作るようになります。

これは細部をデリケートに表現するため粘土で作った原型に漆を染み込ませた麻布を貼り、漆が硬化したところで粘土は取り去って心木を入れて形を固定。その上に粉末にした木材を漆で練ったもので細部を表現し、最終的に漆で仕上げるという張り子のような技法です。

彫るのではなく形作っていくので、細部が気に入らなければやり直せるという利点もありました。脱活乾漆像では興福寺の阿修羅像が有名です。


奈良県に位置する興福寺の阿修羅像。現代ではイケメンと呼ばれて若い女性に人気 / credit: Wikimedia Commons

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木彫の仏像は一木造から寄木造へ発展した

木彫の仏像は一本の木材から掘り出す一木造から始まりました。そのため、仏像のサイズや表現には木材のサイズによる制約がありました。


一木造は像の幅や厚みに制約が出る / credit: Wikimedia Commons

そこで、寄木造という技法が採用されるようになります。寄木造りとは仏像をパーツに分けて制作し、つなぎ合わせるという技法で、一本の木材を彫刻するよりずっと自由に表現できるようになりました。

一木造では仏像の背中側から内部をくり抜くことで乾燥による木材の割れを防いでいましたが、寄木造ではより深くくり抜くことができました。

一木造でよく使われていたカヤ材から、寄木造では乾燥の過程で割れが生じやすくなるヒノキ材に変わっていったことから、より深くくり抜く必要が生じたという説もあります。

寄木造の初期では、仏像を体の側面で二つに分ける「前後剥ぎ」や、正中線で左右に分けて接合する「正中剥ぎ」という方法が主に用いられていました。

特に正中剥ぎは顔の真ん中に継ぎ目がくることもあり、この制作方法をメインの仏様に使うのはちょっとね……というムードがあったのもそう長い間ではありませんでした。

いったんメインの仏様の制作にも使われると、あとはなし崩し的に使われるようになっていったようです。そうして寄木造は全身の木材が均等の厚さになるようくり抜く形で完成していきました。

時代が進むと、ダイナミックな手足の動きや翻る天衣(てんね)、衣の裾などをパーツに分けて彫刻し、つなぎ合わせることで巨大かつ華麗な像も作られるようになりました。

礼拝の対象が塔から金堂に移り、広くなっていく金堂に安置する仏像も巨大化していきましたが、金属や漆でない木彫の仏像でも、金堂の広さに対応させることができるようになったのです。

また、仏教のガーディアンたる仁王像も、より大きく強そうに作れるようになりました。


鎌倉時代の像。木彫の仏像は寄木造りにすることで表現の幅が大きく広がった / credit: Wikimedia Commons

サイズアップしていく木彫の仏像は「必要なパーツに分ける」「内部を空洞に作る」「体部分の木材の厚さを均等にくり抜く」ことで技法が完成されていきました。

そして、内部を空洞にすることで、木彫の仏像が取れるようになった表現が「玉眼」です。

玉眼とは水晶やガラスで作った目のことです。

仏像の頭部を空洞にすることで、くり抜いた眼球部分に水晶やガラスをはめ込むことができるようになり、まるで生きている像がこちらを見ているような表現を取れるようになりました。


玉眼は現代の人形にも使われる / credit: Wikimedia Commons

ここで當麻寺の仁王像に話を戻します。

當麻寺の仁王像は内部が空洞の寄木造。頭部も空洞で玉眼がはめ込まれています。そして仁王像は阿形と吽形の二体。阿形は口を開いた姿です。さらに、二体の仁王像は仁王像であるがゆえに金堂ではなく、仁王門に安置されました。

屋根はあっても屋外です。これが二ホンミツバチにとってはミラクルな条件でした。