Credit:Canva
アメリカのハーバード大学医学部(HMS, マクリーン病院)で行われたマウス研究によって、「トラウマ体験のあとにあえて睡眠を奪うと、恐怖記憶が大幅に減衰する」という興味深い可能性が示されました。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの治療では、一般に“良質な睡眠”を確保することが重要とされてきましたが、この研究によれば「あるタイミングでの睡眠不足」が、むしろ恐怖や不安の原因となる記憶を弱める方向に働くかもしれないのです。
オス・メスいずれのマウスでも同様の効果が得られたというこの発見は、いったいどのようなメカニズムで私たちの心の傷を癒やす手がかりとなるのでしょうか?
研究内容の詳細は『Neuropsychopharmacology』にて発表されました。
目次
なぜ“寝ない”と恐怖が減る? これまでの研究と新たな仮説翌日に睡眠を奪うだけで恐怖記憶が忘れ去られた “あえて寝不足”が恐怖を抑える理由と今後の課題
なぜ“寝ない”と恐怖が減る? これまでの研究と新たな仮説
睡眠障害は恐怖記憶を忘れやすくする効果もあった / “Gentle Stimulation(優しい刺激)”と“Sweeper Bar”という2つの異なる方法で睡眠を奪った際に、マウスの血液中に含まれるストレスホルモン(コルチコステロン)がどの程度変化したかを比べたもの。グラフは、2種類の睡眠剥奪方法でマウスを起こし続けたときに測定した血中コルチコステロン(ストレスホルモン)の量を示しています。 横軸には「コントロール群(睡眠を奪っていない)」「Gentle Stimulation群(やさしい刺激で起こし続けた)」「Sweeper Bar群(ケージを自動的に動く棒でかき回して起こし続けた)」などの区分があり、縦軸はホルモンの濃度(血液1mlあたりのコルチコステロン量など)を表します。 値が高いほどストレスを強く感じている可能性が大きいことを意味します。 グラフからわかるように、Sweeper Barの方がコルチコステロンが高く、“Gentle Stimulation”の方がストレスが少ない手法であることが確認できます。こうした差があるからこそ、実験では余計なストレスを加えずに睡眠だけを奪いたい場合、Gentle Stimulationが適しているのです。/Credit:Allison R. Foilb et al .Neuropsychopharmacology (2024)
人間や動物にとって「恐怖」は危険を避けるために不可欠な感情ですが、このシステムが過剰に働くことでPTSDや不安障害などの深刻な症状へとつながる場合があります。
実際、これらの疾患には悪夢や不眠など、睡眠障害が顕著にみられることが知られています。
睡眠は本来、さまざまな記憶の整理・固定化を助けると考えられており、恐怖の記憶においてもその形成・維持を強化する要因になると考えられてきました。
しかし一方で、トラウマを経験した直後に“あえて睡眠を制限する”ことで、逆に恐怖記憶が抑えられる可能性を示す報告も少なからずあります。
とはいえ、こうした研究では通常、トラウマ直後のごく限られたタイミングで睡眠を奪うアプローチが中心であり、より時間が経過してからの睡眠不足がどのように恐怖に影響するのかは、ほとんどわかっていませんでした。
そもそも恐怖学習などの記憶は、学習直後の数時間だけで完全に固定されるのではなく、何度かにわたる“波状”のプロセスを経て安定化すると考える研究者もいます。
こうした観点からすれば、トラウマを受けてから一定の時間がたった後でも、睡眠のパターンを操作することで脳の記憶固定プロセスに影響を与えられる可能性は十分にあるわけです。
また、トラウマ直後に睡眠を奪う方法は臨床的に実践するには現実的な制約が大きいという難点がありますが、もし時間が経過した後からでも、一定の条件で睡眠を制限すれば恐怖記憶を減衰させられるのだとしたら、PTSDの治療などに新たな可能性をもたらすかもしれません。
将来的には、こうした睡眠操作を活用した新たなケア手法が開発されれば、長期的に苦しむ患者の症状改善にも役立つことが期待されます。
そこで今回研究者たちは、「恐怖条件付けを受けたマウスに翌日以降にあえて6時間の睡眠不足を与え、その後の恐怖反応がどう変化するか」を詳しく検証することにしました。
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翌日に睡眠を奪うだけで恐怖記憶が忘れ去られた
睡眠障害は恐怖記憶を忘れやすくする効果もあった / 恐怖条件付けの翌日に睡眠を奪うと恐怖反応が下がる様子。 ここでは、マウスが「音(トーン)と電気刺激」を組み合わせることで恐怖を学習した翌日に、6時間だけ眠らせないようにした場合(睡眠剥奪群)と、普通に眠らせた場合(コントロール群)の“フリーズ行動”を比較しています。 グラフの横軸は音を聞かせた試行回数(あるいは時間の経過)、縦軸はマウスがじっと身動きしない「フリーズ」をしていた割合や秒数などを示すことが多いです。 ふつうは、恐怖が強いときほどフリーズが増えますが、睡眠を奪われた群ではフリーズ行動が明らかに減少しています。また、この効果は翌日になっても続き、「ただ寝不足で動けない」というよりも「恐怖そのものが弱まっている」可能性を示しています。こうした結果は、学習直後ではなく、翌日でも睡眠不足が記憶(特に恐怖)に大きな影響を及ぼすことを示す重要な証拠です。/Credit:Allison R. Foilb et al .Neuropsychopharmacology (2024)
今回の実験ではまず、マウスに「音(トーン)と足にごく軽い電気刺激(フットショック)を同時に提示する」という方法で“恐怖”を学習させました。
これは「恐怖条件付け」と呼ばれ、音を聞くと「痛い思いをするかもしれない」と感じるようになる仕組みです。
電気刺激は人間の静電気程度のビリッとしたレベルなので、マウスが大きな怪我をするわけではありませんが、恐怖を覚えるには十分な強さです。
ユニークだったのは、恐怖を学習させた直後ではなく、翌日の朝から6時間だけマウスを寝かさないようにした点です。
従来の研究では「学習後、すぐに寝かさない」ことが多かったのですが、実際のトラウマ(事故や災害など)で“瞬時に”睡眠を奪うのは難しいという問題があります。
そこで研究チームはあえて時間をあけ、マウスが十分に休んだあとに睡眠を妨げてみたわけです。
睡眠を奪う方法にも工夫がありました。
ストレスが強い機械仕掛け(ケージ内を棒が自動でぐるぐる回る)ではなく、**「Gentle Stimulation(優しい刺激)」**と呼ばれる手段を使って、なるべくマウスのストレスを増やさないようにしました。
具体的には、巣材(ケージ内の寝床材料)を新しくして好奇心を刺激したり、ケージを軽く叩いたり、やわらかいブラシでそっと体をつついたりして、マウスがうとうとし始めたら目を覚まさせるという方法です。
実際、この方法で睡眠を奪ったマウスの血液を調べてもストレスホルモン(コルチコステロン)が極端には増えず、“追加のストレス要因”になりにくいことが確認されています。
6時間の睡眠剥奪が終わったあとは、改めて「音(トーン)だけ」を聞かせて反応を測定しました。
そしてマウスがどれくらい“じっと動かなくなるか(フリーズ行動)”によって恐怖の度合いを判断したところ、睡眠を奪われたマウスは奪われなかったマウスに比べてフリーズ行動が明らかに少なくなっていたのです。
これはつまり、「音=恐怖」の記憶が弱まっている可能性を示します。
さらに翌日になってもう一度テストしても、同様にフリーズ行動が減少していたことから、「ただ疲れて動けない」のではなく、実際に恐怖が薄れていると考えられます。
また、研究チームはマウスの脳を調べ、恐怖や不安の制御に深く関わる「扁桃体」などの領域で神経細胞の成長や働きを助ける**BDNF(脳由来神経栄養因子)**の量が増えていることも突き止めました。
こうした分子レベルの変化が、恐怖反応を抑える鍵かもしれないとみられています。