
第97回アカデミー賞は、ハリウッドの映画産業が直面している転換点を象徴する結果となった。ショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』(公開中)は、作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞、主演女優賞の5部門を制覇。なかでも注目すべきは、ベイカー監督個人が脚本、監督、編集、製作の4部門を獲得するという前代未聞の記録を打ち立てたことだ。
かつてない偉業を成し遂げたショーン・ベイカー監督(左) / [c]A.M.P.A.S.
この功績は単独では初めて、1954年にウォルト・ディズニーが長編ドキュメンタリー賞、短編アニメーション賞、実写短編映画賞、特別賞の4冠を達成して以来の偉業だという。ディズニーの記録を『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(17)でディズニーランドの外側にいる人たちを描いたショーン・ベイカーが塗り替えたのが最高におもしろい。
■オスカーと国際映画祭の接近。より国際色を増した賞へ
わずか600万ドル(約9億円)という低予算で制作された『アノーラ』は、昨年5月の第77回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したあと、『パラサイト 半地下の家族』(19)や『マーティ』(55)などに続く、4作目のパルムドールと作品賞のダブル受賞作品となった。大手スタジオが高額予算をかけたフランチャイズやシリーズ作品に投資を集中させるなか、芸術性と独創性を追求するインディペンデント映画への支持が広がっていることを示す結果だと見ていいだろう。
『ブルータリスト』は主演男優賞、作曲賞、撮影賞を受賞した / [c] DOYLESTOWN DESIGNS LIMITED 2024. ALL RIGHTS RESERVED. [c] Universal Pictures
『アノーラ』以外にも、第77回カンヌ国際映画祭でプレミア上映された『エミリア・ペレス』(3月28日公開)、『サブスタンス』(5月16日公開)、『Flow』(公開中)などが、31のノミネーションを獲得し、9部門で受賞するという好成績を収めた。一方、国際長編映画賞を獲得したウォルター・サレス監督の『アイム・スティル・ヒア』(8月公開)と、エドリアン・ブロディの主演男優賞を含む3部門で受賞した『ブルータリスト』(公開中)は第81回ヴェネツィア国際映画祭の上映作品だった。
ラトビア映画初の長編アニメ映画賞を獲得した『Flow』 / [c]Dream Well Studio, Sacrebleu Productions & Take Five.
アカデミー賞と国際映画祭の接近は、映画産業のグローバル化を如実に反映する現象だ。『Flow』はラトビア初の長編アニメーション映画賞、『アイム・スティル・ヒア』はブラジル初の国際長編映画賞、『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』はパレスチナ初の長編ドキュメンタリー映画賞を獲得。これらの歴史的快挙は、北米中心だったオスカーが国際的な賞へと変貌していることを示している。
■価値観の多様化を支える、米国外投票者
『エミリア・ペレス』で助演女優賞に輝いたゾーイ・サルダナ / [c]A.M.P.A.S.
多様性という点でも進展が見られた。助演女優賞のゾーイ・サルダナ(『エミリア・ペレス』)がドミニカ系女優として初の受賞を果たし、『ウィキッド ふたりの魔女』(公開中)のポール・タゼウェルが黒人男性初の衣装デザイン賞を獲得している。また、主演女優賞ノミネート5人の平均年齢が47歳という点も、年齢に関わらず多様な役柄が俳優にオファーされるようになってきたことを示唆している。
こうした変化の背景には、アカデミー会員の約2〜3割と推定される米国外投票者の影響力増大がある。さらに、2020年に発表された「多様性・包摂性方針(RAISE)」が2024年の第96回から作品賞応募要件に組み込まれ、テーマやキャスティングの多様性が促進されたことも関係している。2016年以降にアカデミー会員に招待された新メンバーは若く多様なバックグラウンドを持つ傾向が強く、近年の結果はこうした投票基盤の変化を思わせる。2020年の『パラサイト 半地下の家族』から2022年の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(22)、そして昨年の『オッペンハイマー』(23)も、興味を持つ作品であれば「外国語だから」「SFだから」「歴史物だから」といった偏見を持たない若い観客が映画館に足を運んだ結果を反映していると言える。
低予算ながらスマッシュヒットとなった『ANORA アノーラ』 / [c]2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved.
『アノーラ』の現在までの北米興行収入は1,927万ドル(約29億円、Box Office Mojo調べ、3月13日現在)、海外興収を含めると4,768万ドル(約71億円)。歴代アカデミー賞作品賞作品のなかでは低水準だが、600万ドル(約9億円)で作られた映画がこれだけの収益を生んでいる事実は無視できない。ただし、北米配給会社のNEONは1,800万ドル(約27億円)を広告宣伝費・アワードキャンペーンに費やしている。この数字が適正かどうかの分析はされるべきだろう。
■授賞式は、本質的なメッセージにフォーカスし好評を博す
アカデミー賞を運営する映画芸術科学アカデミーは、年々低下する視聴率に頭を悩ませてきたが、今年は5年ぶりに視聴数が増加し明るい兆しが見えた。生放送の視聴者数は1,969万人と前年より約20万人増加、18〜49歳の視聴者が約20%増加、18〜34歳では28%増加という若年層の取り込みに成功した。ABCのテレビ放送に加え、系列ストリーミング・サービスでの生配信も初めて試みられた。主演女優賞と作品賞の発表前に生配信が終了するという痛恨のミスはあったものの、若い視聴者の獲得には寄与しているはず。生放送番組のテレビ放送と配信のサイマルは常態化していくと思われる。
胸を打つスピーチで喝采を浴びた、『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』の受賞者たち / Photo by Maya Dehlin Spach/Getty Images
コナン・オブライエンの軽快な司会進行も好評を博した。政治的言及を最小限に抑えつつも、長時間の授賞式を「誰も嫌な気分にさせない」絶妙なバランス感覚で乗り切ったことが評価された。言葉で政治的立場を表明するのではなく、アカデミー会員が選んだ作品のテーマそのものから考えてほしいという気概が感じられる。
特に、『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』の長編ドキュメンタリー賞受賞時に、イスラエル人監督とパレスチナ人監督の2人が肩を並べて紛争終結を訴えたスピーチは、多くの視聴者の心を打った。また、国際長編映画賞の『アイム・スティル・ヒア』は軍事政権下のブラジルで家族を襲った悲劇を描いた作品であり、政治的分断が深まる現代アメリカにおいて、エンタテイメントの祭典としての性質を保ちながらも現実の問題を想起させるという難題への一つの回答を示していた。実は、紛争が多発するヨーロッパにおけるカンヌ映画祭も同様のスタンスを取り、映画祭としてステイトメントを発表することはしないが、審査員の作品選びとアーティストの発言を妨げることはしなかった。
国際長編映画賞に輝いた『アイム・スティル・ヒア』 / [c]2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma
■加熱するアワードキャンペーンの問題点
今年のアカデミー賞に至るまでの賞レースは、過剰なキャンペーンが抱える問題も浮き彫りにした。主演級の出演時間で助演賞ノミネート(その逆もあり)という「カテゴリー詐称」は新しい問題ではないが、システム自体への疑問を投げかけるものだ。また、『エミリア・ペレス』でトランス女性として初の主演女優賞候補となったカルラ・ソフィア・ガスコンの過去のSNS投稿をめぐるスキャンダルや、『ブルータリスト』のAI使用問題は、デジタル時代ならではの課題を突きつけた。アワードキャンペーンにおける危機管理の重要性が再認識され、アワードパブリシストはSNSの過去投稿や問題発生時の対応策を含めた綿密な戦略を練る必要に迫られている。アワードキャンペーンにおいて、こうしたリスク管理はますます重要になっていくだろう。
『エミリア・ペレス』は助演女優賞、歌曲賞の2部門を受賞 / [c] 2024 PAGE 114 – WHY NOT PRODUCTIONS – PATHÉ FILMS – FRANCE 2 CINÉMACOPYRIGHT PHOTO:(c)Shanna Besson
前述したように『アノーラ』は製作費の3倍にもなる広告宣伝費を費やし、他のスタジオも平均1,000万ドル(約15億円)から5,000万ドル(約74億円)という莫大な費用をかけると言われている。かつてはアカデミー賞候補作を劇場で再上映すると興収増が見込めるためこれだけの宣伝費がかけられたが、パンデミック以降の伸びは厳しくなっている。その代わり、各配給会社は2月、3月のアワードシーズンにどのストリーミング・サービスに配信権を売るかに勝負をかける。DVDなどのソフト販売やPVOD(課金型デジタル配信)と異なり、SVOD(サブスクリプション型配信)の二次使用料分配は明朗化されていない。ショーン・ベイカー監督がスピーチで訴えかけたインディペンデント作家の困窮は、このような映画ビジネスモデル、ライフサイクルの変化にも起因している。
■『アノ―ラ』の受賞に見た、創造性を尊重する微かな希望
『ANORA アノーラ』で主演女優賞に輝いたマイキー・マディソン / [c]A.M.P.A.S.
ハリウッド映画産業は近年、パンデミック、組合のストライキ、ロサンゼルス郡の山火事など、未曾有の困難に何度も直面してきた。しかし、最大の課題はスタジオシステムの機能不全と言えるかもしれない。大手スタジオは安定志向のフランチャイズ作品に依存し、中規模予算の映画は減少。アメリカ映画は超大作と低予算インディーズ作品の二極化が進み、その中間にあった作品は映画館での上映機会を失い、ひっそりとストリーミング・サービスで配信されるのみ。新メディア立ち上げで膨らんだ赤字を補填するための業界再編や買収合併が続き、雇用は減少の一途をたどっている。
作品賞受賞スピーチで「インディペンデント映画万歳!」と拳を上げたベイカー監督の力強い宣言は、単なる勝利の喜びを超えた切実なメッセージとなった。特に重要なのは、彼がどの映画賞でも強調していた「映画館で上映される映画を作り続ける」という決意表明。ストリーミング全盛の時代において、彼のようなクリエイターを育んできた映画鑑賞経験を守ることの重要性を改めて提起した。『アノーラ』だけでなく、作品賞候補の大半を占めるインディペンデント映画に投票したアカデミー会員は、クリエイティビティを失ったスタジオとすでに立ち行かなくなっているシステムに反旗を翻したのではないかと思う。
『ANORA アノーラ』に描かれた困窮の現状は、決して絵空事ではない / [c]2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved.
インディペンデント・スピリット賞のスピーチでベイカー監督が指摘したように、インディペンデント映画の制作者たちは映画業界全体の雇用と収益を生みだす作品を制作しながらも、不安定な収入で活動を続けている。『アノーラ』の主人公アニー(マイキー・マディソン)が雇用主に勤務時間を守れと言われ、「健康保険、労災保険、401K(拠出型年金)を提供してから言って」と言い返す場面は、不安定な雇用と低賃金という映画制作の現状を鋭く描きだしている。セックスワーカーの物語を通して、実は映画産業を含む全労働者の物語が語られているのだ。
『アノーラ』とショーン・ベイカーの受賞結果からは、創造性と誠実さを尊重する土壌がまだこの業界に存在するという微かな希望が感じられる。映画ファン向けSNSのLetterboxdの流行により若年層の観客がインディペンデント映画を劇場で鑑賞する機会が増えているとの指摘もある。スタジオの戦略だけでなく、観客の選択も映画の未来を左右する重要な要素だ。映画というメディアの力と可能性を信じるすべての人にとって、今年のアカデミー賞結果は、困難のなかにも希望を見出す光明となったのではないだろうか。
ショーン・ベイカー監督でスピーチで示した、インディペンデント映画の現状への警鐘は本年のアカデミー賞を象徴するものとなった / [c]A.M.P.A.S.
文/平井伊都子